夜間飛行

―1―




………え。

囁くように名前を呼ばれた気がして、泥のような眠りがわずかに揺らいだ。
水底にたゆたう心地よさは手放さず、腕だけを伸ばして傍らにあるはずの人肌を探す。
が、いつまでもその手が空を切る不審さは、 やがて硝子を引掻くような不快になって意識の覚醒を促した。

なおえ…。

再び聴こえた高耶の声に押されるように瞼をあげて、隣にその姿がないことに気づいたとたん、眠気が一気に吹き飛んだ。
がばっと身を起こしてみれば、暗がりの中、部屋の中央に行儀よく端座している白い影が眼に飛び込んでくる。
「高耶さん……」
安堵と驚愕の入り混じった呟きをもらしたきり、後は声も出なかった。

もちろん獣形の高耶を見るのは初めてではない。
だが、あのときとはなんという違いだろう。
昼間の光の下で美しいと思った毛並みは、今は、内側から発光しているかのようにさらに輝きを増している。 柔らかく明滅する、乳白の蛋白石に透けて浮ぶ虹の七色。背中にいただく黒雲母の紋様がうねるように煌めいて繊細な地色を引き立てている。
こうしてみると、彼はまるで生ける宝玉そのものだ。内に秘めた魂の輝きが毛先の一本一本に至るまで満ちている。

視線を外せずただ呆けたように見つめる男に、小首を傾げて高耶が言った。

気持ちのいい晩だから。散歩にいこう。

「さんぽ?」
声は直接頭に響いた。それにも気づかぬように問い返す。

ああ、庭で待ってる。寒くないように着こんでこい。

それきり高耶は立ち上がり、さっさと窓から外に出てしまう。
流れるように優美な仕種。
身体を運ぶために前肢を踏み出すその第一歩から、ゆるゆると蛇のように動く尻尾の先まで、 無駄のない一連の仕種は光の残像となって目に焼きついて、ようやく我に返ったのは、彼が視界から消えてしまってしばらくしてから。
わけの解らないままに、とにかく急いで身仕舞いをした。

散歩、と、彼は言った。だが、いくら真夜中でもあの姿では目立ちすぎる。誰かに見られたが最後、大騒ぎになってしまうだろう。
出来ることなら引き止めたいものだと、そう思いながら庭に出る。


高耶は空を見上げていた。
あるかなきかの微風に何かを嗅ぎ取るように。
つられるように見上げた空はいつもと変わらぬ夜の空。雲はなくわずかばかりの星が瞬いていた。 暗闇に目が慣れれば、たぶんもっとたくさんの星々を拾えるのだろうが、今はかろうじて星座のかたちをたどれるほどしか見つけられない。
闇が薄いと言った高耶の言葉が思い起こされた。 こんな貧弱な星空に、彼は一体何を想うのだろう。

潮の匂いがする……。

声をかけるのを躊躇われて佇むままの直江に、ぽつりと高耶が呟いた。

海は、あっちか?

問われて曖昧に頷いた。
「ええ……。でも車で一時間はかかる距離ですよ」
高耶が笑った。獣の造作なのに、確かに笑ったのだとわかった。

いいから。乗れ。

「!?」
それきり高耶は背を向けて身を伏せるから、直江は言われた通り、おそるおそるとその背中に跨った。こんな真似はこの美しい生き物に対する冒涜のような気がして、内心忸怩たる思いで。
そんな乗り手の心を知ってか知らずか、自ら騎獣の役回りを引き受けた高耶は、身体を起して二歩、三歩と重心を確かめるように歩き出す。
その動きが思う以上に滑らかなのに感嘆しているうちに、とっとっとその歩みが早くなる。
身体の下の筋肉が撓んだと感じた次の瞬間、直江を乗せたまま高耶はふわりと空へ駆け上っていった。

「!」
あり得ない浮遊に眼を疑った。
跳躍ではない。塀を越え、梢をすり抜け、家々の屋根を遠く眼下に眺める位置に来ても高耶の身体は一向に重力に従う気配はない。 翼もなく機械に頼るのでもなしに、緩やかに上昇を続けていく。大地を駆けるように、宙を蹴って駆けていくのだ。

やがて、住み慣れた街並みが山影に飲まれて、黒々とした大地がその威容を現してぽっかりとその闇色の口を開けた時、直江は初めて恐怖を感じた。
卑小な人間の身で、庇うものなく身ひとつでこの光景を目の当たりにしている今の状況に。
何しろ文字通り脚は地に着いていないのだから。振り落とされでもしたらひとたまりもない。慌てて身体を伏せ高耶の首に手を回す。
とたんにはじけるような笑い声が頭に響いた。

そんなにしがみつくな。大丈夫。自分の主を落したりはしない。

そうなだめられても、なにしろここはすでに地上何百メートルという空の上だ。落馬するのとはわけが違う。

それとも…高いところは苦手だったか?

心配そうな高耶の声。
そういう問題ではないのだと思いながらも、ふるふると首を振る。
高耶にはそれで充分だったらしい。安心したような声が響いた。

よかった……。じゃ、海に出るから。落ちる心配はしなくていいけど、風が冷たいかもしれない。寒かったら伏せていてくれ。

言うなり、高耶は脚を早めて、直江はもう何も言えなくなった。
風の唸る音だけが轟々と耳に響く。こんな空気のかたまりをまともに食らっては息が詰まりそうだったから、言われたとおりに身を伏せた。

顔に触れる高耶の毛並みはこんな時でも心地よくふんわりと暖かかった。



つづく



気をめいっぱい取り込んで(笑)完全復活した高耶さん。空も飛べちゃいます。
『彼に似合う白』から続いています。
背景だけ、替えたかったんです…(安直)




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