夜間飛行

―2―




いくらも経ったとは思われないのに、あたりを取り巻く大気が変わった。しっとりと重みを増した風が潮の匂いを運んでくる。
目線を上げれば、前方には膨大な質量を感じさせる、のっぺりとした闇。
振り返れば、イルミネーションに縁どられ黒々と横たわる陸地の影。
その宝石のような連なりも、見る間にせりあがる黒い水平線に飲まれていって、あたりはぐるりと闇に包まれる。
月も昇らない深更、それでも時折海面が微かに煌めくのは、星明りのせいだろうか。
何気なく見上げて、愕然とした。
そこに在るのは、見慣れた夜空とはまったくの別物だった。
天の底が抜けたかと思うほど宇宙からの光に溢れ、白々とした星々が、闇色を駆逐する勢いで虚空を埋め尽くしている。
足元がおぼつかなくなるような、そんな畏怖さえ抱かせるほどの膨大な星の数。
考えもしなかった。まだこんなにも圧倒される自然と背中合わせでいたことに。
星は消えたのではなく、自分らの目が曇っていただけのだと。

飛翔時と同じく、緩やかに高耶は高度を下げて、気がつけば、海面に突き出た名もない岩礁に着地していた。
風を切る轟音が今度は穏やかな波の音に取って代わる。

見渡す限りの海。満天の星空。岩陰に寄り添う高耶と自分。
まったくこの世のことではないようだと、ふと思う。現実に硬い岩が足元にあり、温かな体温が傍らにあり、こうして波音も聴こえるというのに。

星空は寝転んで見るに限るから。

訳知りにひげを蠢かせて、高耶は肢体を伏せ、自分にもたれるように促してくる。

枕にするのにちょうどいいだろ?

「なんだか申し訳ないようですね。ずっと背中に乗っていた上に、今度はおなかを借りるなんて」
苦笑する直江に高耶も笑う。

まあ、たまにはな。いつも腕枕してくれる、そのお返しだ。

言われるままに寝そべりながら見上げる星空。
天空に一筋、文字通り乳白に霞む天の川が見える。
あまりにたくさんの星がありすぎて、街中とは別の意味で星座を辿るのが困難だった。

こうしてみると、蓬莱の空も悪くない。

ぽつりと高耶が呟いた。
「この空はあなたの故郷に似ていますか?」

うん……。

「帰りたい?」

いや。

高耶の応えは即答だった。

おまえの側がオレの居場所だから。おまえのいるところにオレもいるだけだ。
……だからもう留守番なんてさせるなよ?

さりげなく付け足された言葉に、直江の眉が跳ねた。同時に彼の真意が解った気がした。
今夜の散歩は彼なりの示威行動でもあったのだと。
「あなたは…目立ちすぎる。今の姿も……人のままでも」

大丈夫だ。

精一杯の婉曲な拒絶を、高耶はあっさり一蹴した。

夜中に空を見上げる物好きはそうそういねーよ。地べたを這う連中は地べただけに気を配るもんだ。それに、今は、陰伏もできるから姿を顕さなくてもおまえの側についていられる。

人の形をしていたら、彼はまさしく胸をドンと叩いていたことだろう。

「あなたを危ないことに巻き込みたくないんです。私の仕事はお世辞にも誉められたものでないですから」
仕方なく告げた本音に、高耶はふんと鼻を鳴らした。

ばかだな。だからオレが必要なんじゃないか。
オレたちは外見がいいだけのお飾りじゃない。 戦場でどんな妖獣より役に立つから、連中はオレたちを捕らえるのに血眼になるんだ。ここでも…おなじだ。 きっとおまえを守ってやれる。
……もう影が満ちたから。オレ本来の力で。…だから、連れて行け。

不遜な物言いに隠された微かな怯え。
片時も離れたくないのは、たぶん高耶も一緒なのだ。応えを待ってわずかに強張る身体がそう知らせてくる。
……そうして、自分はまたひとつ、心の深いところが満たされる。

「まったくあなたには敵いませんね……」
吐息のように漏らした降参の言葉にみるみる高耶の緊張が解けていくのがわかって、そんな自分が誇らしかった。
「第一あなたにヘソを曲げられてこんな小島に置き去りにされたんじゃたまらない」
ことさらに冗談めかして付け加えた言葉に、高耶が眼を丸くする。

そうか。そのテがあったか。

その言い方が心底感心したような口調だったから、直江の方が驚いた。
「まさか、本当に星を眺めるためだけに、こんな処まで連れてきてくださったんですか?」
こくりと高耶が頷いた。

……街の明かりに邪魔されない人気のない場所っつったら、海に出るのが早いかと思って。でも、やっぱり人間って賢い…つーか、あくどいな。そういうことまで考えるんだ?

「だからあなたには係わって欲しくないんですよ」
ひどく冷たく流し見られた気がして、ため息を吐きながら直江は言った。
つい深読みしてしまう自分の甲斐性を悔やんでももう遅い。 一度こうして言質を与えたからには、高耶も引くことはないだろう。
それが、どういう未来を招くかは神ならぬ人間の身では知る由もないけれど。
すくなくとも、彼を置き去りにする際の引き裂かれるような疼きはもう感じなくていい。
それを思えば、この先起こり得るどんな障害も乗り越えていけそうな気がした。

ひたひたと足先を波が洗う。満ちてきた潮に慌てて直江が身を起こす。

帰るか?

「ええ。……実を言うと少々ベッドが恋しいです」

オレもだ。

珍しく弱音を吐く直江に笑って応えて、再び高耶は空を駆ける。
もう決して独りで過ごすことはない、安全な塒へ。



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ウラ稼業なのに空を飛んで固まる直江が情けないと思いました(苦笑)
セスナとかヘリとかパラシュートの扱いなら慣れていると思うんです。
危険を承知してる分だけ今回は無防備でいることに抵抗があったと…まあ、そんな感じでご勘弁ください。
次からは……きっと高耶さんを乗りこなしているはず…(大笑い)




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