ゆめの泡沫うたかた

―眠れぬ夜のお伽―




「本当にきれいですね……」
目の前に端座する白い獣をみつめて、うっとりと男が呟いた。
「触れてもいい?」
言う傍からその手は艶やかな毛皮へと伸ばされる。 請われるままに獣型に転変してみせた高耶はわずかに頭を垂れて直江の愛撫を受け入れた。
毛並みに沿って流される掌に喉を鳴らし、心持ち体を伏せながらも、

――耳の後ろはカンベンな。

と、釘をさしてくる。
「スイッチ入っちゃう?」
からかうように問い掛けたその応えは、憮然とした口調そのままに、直接、頭に響いてきた。

――この格好だとシャレにならねえ。おまえを押し倒すはめになるけど、いいのか?それでも。

身の丈以上の高耶にのしかかられた自分の姿を想像する。どう考えてもそれは人喰い虎に襲われているようにしか見えない構図で、 なるほど、冗談ではないと苦笑した。敏感すぎる部分だけを慎重に避けて掌を滑らせる。
ほんのりと温かい毛皮の下にはしなやかにうねる筋肉の筋が感じられて、確かに彼はその虎によく似た外見の通り、俊敏で猛々しい肉食獣なのだと納得する。
その思いが口をつく。
「……この姿だとやはり口にあうのは血の滴るような生肉なんでしょうねえ…」
それまでの高耶は、火を通し加工された肉を食べ、穀類も、野菜さえも平然と口にしていたのだ。こちらが本来の姿だとしたら、その食事に不都合は無かったのだろうか?
直江の疑問を読み取ったように、高耶が応えた。

――転変するときに感覚も切り替わるみたいだな。人でいるときは特に生肉にはこだわらないし…もっと美味いもんも食べさせてもらったし。

だから平気だ、と、安心させるみたいに伝えてくる。
「それならばいいんですが…」
まだ釈然としない直江をとりなすように、言葉は続く。

――手足もそうだ。二本の足で走れるし、指も、もう普通に動くだろ?ボタンだって一人で嵌められるし、食器だって洗えるし……

出来ることを誇らしげにひとつひとつ数え上げていく高耶が、直江には微笑ましくてたまらない。
そうなのだ。はじめのころのぎこちなさが嘘みたいに、高耶の指はそのきれいな形に相応しく繊細に動く。
つまり、人の形をしている限り、普通の人間と何ら変わりはないということだ。
それならば、外に連れ出してもかまわないかもしれない。
そんなことをぼんやりと思う。
それとも人型でいるのは窮屈だろうか?人ごみは彼の精神を疲れさせるだけだろうか…。
連れ出して優雅な容姿を衆目に見せびらかしたい半面、この稀有な存在を秘匿していたいのも事実だから。
直江は自らの気持ちを量りかねて、ただ高耶の背を撫で続ける。 絹のように光沢のあるその体毛は見た目よりはずっとこわく、弾力があった。肌を擽られるような感触が心地よくて、時々、わざと逆毛を立ててみてはまた撫でつけて手触りの変化を愉しむ。
無心に繰り返されるそのリズムにあわせるように、高耶の長い尻尾が静かに床を刷いていた。

「この姿で過ごしていたの?……その、あなたの世界では?」
あのとき垣間見えたあの風景が、高耶の故郷なのだろうと思う。
荒涼とした原野ばかりが広がってみえたけれど。
「まあな」
のそりとソファの陰に回ったかと思うといつのまにか高耶は人の姿にもどっている。身を屈めて衣服を拾い上げるその仕種が流れるようにきれいで、慌てて直江は視線を外す。そして、身仕舞いの衣擦れの音がやみ、高耶が傍らにやってくるのを辛抱強く待った。
「今はこっちのほうがラクだけど……、向こうじゃ、この姿では生きていけなかった……」
少し遠くを見る目つきで、彼は語った。

どんな暮しかって?
獲物を狩って、喰らって、眠る……。ただそれだけだ。
自分が人の姿を取れることには気づいていた。でも、わざわざ自由の効かないよわっちいカッコしていることもないからな。それに、人間は嫌いだった。
オレの棲むところは……と呼ばれる荒野で、そこで見かける人間は大概オレたちを捉えるのが目的の連中ばかりだったんだ。
牙も爪も持たないくせに、妙に悪賢くて刃物や鎖で罠を仕掛けてオレたちを捕まえる。厄介な奴等だった……。
知ってるか?オレたちは瑪瑙に目がないってこと。あいつらはそれを心得ていて、罠のまわりに瑪瑙をばら撒くんだ。

高耶の眼がゆっくりと細められる。その感覚を口中に甦らせるみたいに。
鋭い歯と頑健な顎に、柔らかな玉石はひとたまりもなく噛み砕かれていったろう。
ああそうかと合点がいった。
たぶん……その口解けはあの砂糖菓子に似ていたのかもしれない。

「罠だと解っていて、それでも食べにいくの?」
「ああ。ゲームみたいなもんだった」
悪びれもせずに高耶は言った。

仕掛けの周りには大抵寄せ餌が撒いてある。危険はあまりないけど、石も小さい。だんだんに慣れてきて度胸がつくと、中心に据えてある大きな塊が欲しくなる。もっとも、それが奴等の狙いなんだけどな。塊にかぶりつく頃には完全に張り巡らされた鎖網の中ってわけだ。
高耶は小ばかにしたように笑った後、少し考え込む顔になった。

罠自体はたいした脅威じゃないんだ。鎖が絡んで自由がきかなくなるだけだから。まあ、石に酔っているからちょっとてこずることもあるけれど。それでも本気を出せば雑作もなく引きちぎれる。 オレたちはそれだけの力を持っている。問題は……人間の中にも時々凄い奴は混じっているってことだ。相手にこちらと釣りあう力量があれば、身動きが封じられてる間に心を絡め取られるから。
そうなったらちょっとやばい。そいつの僕に下りたくなかったら、死に物狂いで逃げ出すわけだ。

「ちょっと待って?」
不意に厳しい声音で直江が話の腰を折った。
「あなたもそこまで深みに嵌ったことがあるの?その身体をがんじがらめに鎖で縛られて身動きも出来ずに地べたに転がされて、危うく他人を受け入れそうになったことが?!」
何を自明のことをと、不思議そうに高耶が返した。
「それぐらいの危険を冒さなきゃ、極上の石は食べらんないんだから仕方ないだろ?なんかヘンだぞ?おまえ。何怒ってんの?」
そういってするりと頬を包み込んでくる手に、直江は自分の手を重ねて力を込めた。
「ええ、怒っているんです。たかが石に惹かれて危ないゲームをしていたあなたに。あなたの綺麗な身体を鎖で縛り付けたその見知らぬ男に。そして、そんなあなたの窮地を知らないで過ごしていた自分に……今、猛烈に腹が立っている」
そういう直江の声はどこまでも真剣で貌も険しいままだった。

ああそうかと、高耶は思う。
過去でも未来でも、自分がそんな目に遭うのは嫌なのだと。この男にとっては耐えがたい屈辱なのだと。
理不尽な怒りのようでも、込められた真情は伝わってくる。 じわじわと共鳴して高耶の心まで震えるから。
だから、痛いほどに手を捕らえられながら、高耶も黙って男を見上げた。その激情が静まるまで。
高耶の穏やかな眼差しを受け止めて、やがて、ゆっくりと直江の表情が和らいだ。
「おかしいですか?こんな私は。…でも我慢できないんです」
自嘲に口元を歪めながら、恥じ入るように呟く。
そんな男を慰撫するように高耶は微笑んで、ようやく解かれた手でその首を抱く。そして、額をこつんと合わせて囁いた。
「バカだな。そりゃ何度か危ない目にはあったけど……、間一髪の手強い連中もいたけれど。
おまえ肝心なことを忘れてるぞ」
意味深な言葉の意味が沁み入るのを待つように、高耶は一度口を噤んだ。
「高耶さん?」
焦れた男が続きを促す、その呼びかけに破顔する。

「いいか。おまえ以外誰もその名前にたどり着くことはなかったんだ……」

これまでも。
そしてこれからも。





つづく



眠れぬ夜の御伽の番外というか続きというか……。
水面に浮ぶ泡のように、ぽつりぽつりと高耶さんが過去とか未来を語ってくれるといいなと思っています。
というわけで、たぶん、オニムバスで続きます。気長にお待ちくださるとうれしいです。
今回は罪の意識がないままに過去のアバンチュール(なんか違う)を披露する高耶さんに怒り狂う直江の図ということで…(笑)
書きながら高耶さんを捕まえ損ねたあのオトコは、やっぱりギョウソウさまよね。などと一人ボケておりました(脱兎)




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