ずいぶん長く眠った気がした。 寝過ごしてしまっただろうか、と、天蓋を見上げながらぼんやりと考える。 ゆっくりと頭を巡らせ、いつもとは違う角度で射しこむ窓からの光に目を瞬かせていると、 「おはようございます」 どこからかやってきた直江に声を掛けられた。 「……はよ…」 やはり寝過ごしてしまったらしい。 声が掠れて上手く言葉を紡げないし、やけにだるいし、頭は重いし。 それに自分が目覚めるまでは寝床を離れたりしないこの男がこうして寝台の脇から覗き込んでくるということは。 でも、なんでそんなに心配そうな顔をしている? 訊くより先に問い掛けられた。 「……大丈夫?身体は辛くありませんか?頭痛がしたりはしない?」 言われて初めて気がついた。 この気だるい感覚はすでに馴染みのもの。そういえば自分は昨夜、直江と一緒に夜会に出掛けて、それから――― ようやく記憶が繋がって、みるみる高耶は真っ赤になる。顔を隠すようにシーツを目元まで引き上げた。 「……ごめん。迷惑かけた」 蚊の鳴くような呟きに、直江は首を振った。 「謝らなければならないのは私の方です。あんな夜会にあなたを連れ出したのに。もっと用心するべきでした」 「じゃ、あの……」 急に身体の自由がきかなくなったあの時のことを思い出し、不安そうに言い澱む高耶の疑問を直江が引き取る。 「たぶん、薬入りの飲み物を渡されたんでしょう。裏に回れば色遊びも常套の舞踏会ですから。 ……そういう興奮剤入りのグラスも給仕の盆に載せられているんです。普通の飲み物と一緒に。 あなたにはその手の薬に耐性がなかったから。だからよけいに効いてしまったんだと思います」 「………」 発情したのは薬の所為であって高耶自身の意思ではない。だから、なにも気に病むことはない、と。 淡々と事実だけを語る言葉の裏には、そんな思いやりが感じ取れて。 心が軽くなっていいはずなのに、逆にますます居たたまれない気持ちになった。 あの時。 怒りと、逃れようのない屈辱に絶望しかけていた時。 ふいに直江の声を聞いて、気がつけばすでに直江の腕の中だった。 しっかりとその胸に抱き寄せられ直江の匂いを嗅いだとたんに、泣きたいほどの安堵に包まれた。 同時に、かっと身体が熱くなった。まるで枯野に放たれた火が燃え上がるように。 直江が欲しくて。 直江に宥めてほしくて、ずいぶんと恥かしいことを口走った気がするし、 実際、彼がくれた愛撫は蕩けるほどに気持ちよかった。羞恥など微塵も感じず、ただ湧き上がる愉悦のままに声を上げ、彼を求めた。 それが媚薬の作用といえばその通りなのだろう、と高耶は思う。 でも箍が外れたように一気に身体に火がついたあの瞬間。 身を委ねたのが直江でなければ、決して自分はあんなふうに崩れたりはしなかった。人にも薬にももっとしぶとく抵抗していたはずだ。 でも、直江は? 彼は自分のことをどう思ってる? 空恐ろしい不安が渦を巻いた。 薬の所為と言ってくれているけれど。ならば、一服盛られれば、他の男の腕の中でもあんなふうに乱れると思われてやしないか。淫乱な身体だと軽蔑されているのではないだろうか。 この男にそう思われていると想像しただけで堪らなくなる。断じて違うと、すぐにも否定したかった。 けれど、仮定を重ねた推論に正面切って弁解するのもまた、この男を貶めることになりそうで。 「………おまえだけだから」 しばらくの逡巡の末にようやく出てきた言葉は、たったこれだけだった。 とても真意など汲み取ってはもらえそうにない舌足らずの一言だと、自分でもそう思った。 きっと怪訝な顔をされるに決まってる。ひょっとしたらもっと詳しい説明を求められるかもしれない。それ以上なんてとても言えやしないのに。 直江の反応が怖くて、高耶はぎゅっと目を瞑る。 そうして強張った頬に優しい手が触れてきた。その羽のような感触におずおずと目を開けると、 穏やかな瞳をして微笑む直江の貌があった。 「…知っていますよ」 返されたのは、簡潔な一言。 それでいて、何もかも解ってくれているのだと確信させる声音と表情。 「……うん」 不覚にも涙が滲みそうになった。なんとか笑い顔を取り繕おうと口角をつりあげる。 そんな高耶の心中を察したか、雰囲気を変えるかのように明るい声が降ってくる。 「お腹、すいたでしょう?朝食はここに運んできましょうか」 「うん!」 申し出に救われたように高耶が頷く。 その頭をくしゃりと撫でてもう一度微笑むと、直江は静かに寝台から離れていった。 ドアが閉まる気配を背中で感じて、高耶がほうっと息を吐いた。 正気に戻った今、そしてこんなに明るい陽光の中では、とても面と向っては告げられないけど。 「好きなのは、おまえだけだから……」 小さく呟いて目を閉じる。 おまえじゃなきゃ、抱かれたりしないから……。 それを解ってくれてるって、信じてていいんだよな……? 感覚だけが暴走してしまった昨夜の身体に、ようやく心が追いついた気がして。 満ち足りた気分に包まれて、高耶はいつしか再び寝入ってしまっていた。 しばらくして、手ずから朝食のワゴンを押して来た直江が見たのは、そんな高耶の姿。 物音を立てないよう注意深く傍らに腰掛けて、安らいだその寝顔に見入った。 「……知っていましたよ」 自分だからこそ解放された高耶の情欲も、想いも。それゆえの煩悶も。なにより横暴に屈しない彼の生来の誇り高さも。手管を弄する貴族の若造になど、付け入る余地のない人なのだ。 (……だいたい、あなたを手に入れるのに、どれだけ私が苦労したと思っているんです?) 口には出さず、胸のうちだけで呟く。 いや、手に入れたというのは思い上がりだ。恋焦がれる自分を、高耶が受け入れてくれたからこそ、今の幸せがある。 自分だけが見ることのかなう、安心しきった子どものような表情。それを守れることの奇蹟のような幸運。 自分を選んでくれた最愛の人の髪を梳き、直江はそっと唇を落とした。 |