眠れぬ夜のお伽
―一夜―




五日ほど不在にした部屋には、饐えた空気がこもっていた。

無人の部屋に帰るのとは違う。食物や凝脂の入り混じったむっとくるようなその臭いは明らかに生き物のいるその証拠でもあったから、戻った男は、ほっと安堵の息をついた。
食物が散乱したキッチンや開け放たれたままのトイレを尻目に、まっすぐに奥まった納戸に向う。
薄闇をすかして片隅に蹲る影を認め、静かに歩み寄った。
使われなくなった家具とガラクタとの間の狭い隙間にクッションやら毛布やらを寄せ集めて作られた寝床。そこに彼はいた。
膝を突き、目線を同じ高さにして問いかける。
「……ただいま。いい子にしていた?」
応えは無い。
ただ天窓から覗く月を見上げていた視線がゆっくりと男の姿を捕らえ、またすぐに逸らされただけだ。まるで興味の失せた玩具をみるような、そんな無感動な眼つきで。
それでもめげずに、そっと肩を包み込む。
「ひもじくはないですか?…なにか、暖かいものをつくりましょうか?」
囁きながらうなじに顔を寄せ、垢じみてしまったシャツの襟元を寛げて耳の後ろを舐め上げる。
ぴくん。
今度は確かに反応した。
きつく吸い上げながら、髪を撫でた。
くたりと、とたんにしなだれかかってきた肢体を抱きしめる。
ようやく叶った、形ばかりの抱擁にそれでもほくそえみながら。
「先にお風呂にしましょうか……あったかいのは好きでしょう。全部キレイに洗ってあげる。……それからあなたの好きなものも」

惜し気もなくシャワーのお湯を掛け流し湯気で暖めた洗い場で、男はシャボンを泡立て彼の身体を清めていく。隅々まで丁重に。時々わざと触れる敏感な部分に彼が洩らす声を密やかに愉しみながら。
泡とともに汚れと垢を洗い流せば、珠になって湯を弾く、滑らかな象牙の肌があらわれる。
その肌に見合う髪はぬばたまの漆黒。顔を濡らさぬよう膝枕で仰のかせ、絹糸のような手触りのそれを慎重に濯いだ。湯気に霞んで無心に見上げてくる黒曜の瞳にうっとりと魅入りながら。

この天から下された神獣に傅く僕のように。




出会いは単なるアクシデント。道端に、文字通り転がっていた彼を危うく轢きかけた。
その時間、その場所に、男は存在しないはずの人間だったから、厄介事になる前に唯一の証人である彼をその場から連れ去った。懐柔するか恫喝するか、場合によってはその存在を抹消するために。
らしくないドジを踏んだものだと、そう内心で舌打ちしながら。

が、男の用心はまったく意味を為さなかった。

意識を取り戻しても、彼は男の問いかけには応じなかった。
言葉そのものを解さない。手指を使えない。脚で立つこと、歩くことさえおぼつかなげで、手先を使うよりは直接顔をよせ、鋭い犬歯で与えられた食事を食いちぎった。
天外な話だが彼は人の形をした獣なのだと、しばらく観察を続けた後で男はそう結論づけざるを得なかった。
それでも幾ばくかの意思の疎通が図れたのは僥倖というべきだろう。
連れ去った理由はともかく、こちらに敵意のないことを彼は理解してくれた。
食べる物と寝床と安全。男の家を自分の領域テリトリーだと、そう彼は認知したらしかった。
そして、一度認識した後は、男は家の付属物にすぎず、その存在は空気かなにかのように無視をされた。

奇妙な同棲が始まった。
まるで気位の高い大きな猫と暮らすようだと、男は思った。
犬のようには懐いてこない。呼びかけてもじゃれつきもしない。整ったその容貌に似つかわしい吸い込まれそうに深い瞳でみつめるだけだ。
それでも食べ物を差し出せば素直に口にし、温かなお湯は心地よいものだと知ると風呂を遣うのも厭わなくなった。こちらの手が冷たくさえなければ、そのすべらかな肌に触れるのも。 戯れに落とす口づけも。元々が凛々しい人の容姿を持つ彼だけに、その行為は男にとっても次第に倒錯的な刺激を帯びたものとなった。

男の慰撫が首筋に及んだのは偶然だった。
ひくん、と彼の全身が震えた。
それまでの優美な無関心が嘘のように身をすり寄せてくる。より一層の愛撫を強請るように。
指先が捉えた耳の後ろはどうやら彼の官能のスイッチらしかった。
悪戯心を起こしてその部分を甘噛みする。
彼は甲高い喉声で一声啼いた。
延髄を直撃するような甘美な響きに、煽られるように刻印を散らした。手触りを愉しむように全身くまなく撫でさすった。
滑らかな鎖骨も、つんと尖った薄紅の突起も、ひきしまったわき腹も。そして煙るように萌える叢も。何処もかしこも見惚れるほどに美しくて、そして何処もかしこもが敏感だった。
すでに勃ち上がった性器に指を絡ませる。少しくすんだ色味の彼の分身はそれでも信じ難いぐらい綺麗な象牙色で、熟れたプラムのような先端からは透明な蜜が滴っていた。
与えられる刺激のままに背筋がうねり、腰が揺れる。感じるままに上げているのだろうそのあまやかな悲鳴はどんな媚態より強烈に男を誘った。
理性が灼き切れるのにたいした時間はかからなかった。欲望のままに彼を抱き、彼もそれを拒まなかった。

彼の肢体に溺れ、夢のように日が過ぎる。

時々、男は家を留守にした。
傷みのこない保存食料を山のようにテーブルに用意する。蛇口を細く捻っておく。糸のように水が伝い流れるように。
鍵はかけなかった。窓を細く開け、家の周囲に結界を張った。外部からは侵入れない。しかし内側からはいつでも外に出られるように。
戻れないかもしれない。そんな最悪の結末を迎えた時に、彼を閉じ込めたまま惨めに飢えさせるわけにはいかなかったから。
そんな訳ありの不在ももう十指を数える。
そのたびに還ってきた。彼のもとに。万感の想いで帰宅を告げる男に、彼は恬淡とした一瞥をくれる。相変わらずその瞳にはなんの色も浮かべないまま。
彼の身体を清め、狂気のように抱きしめる。
男が唯一感じた生への執着として。

彼と出遭えた偶然は、男にとっては必然になった。彼のいない生活はもはや考えられなかった。
だが、彼は?
嫌われてはいないだろうと思う。それだけで、満足しなければとも思う。
それでも。
自分だけが焦がれていくことへの焦燥は打ち消せない。
どれほど行為に耽溺しても、ひとたび熱が去れば彼はすぐに野生に戻る。男の存在はひとかけらも心の裡に残らない。特別な存在にはなり得ない。今はこうして我が元に留まってはいても、彼は―――触れられさえすれば他の誰にでも同じように晒すのに違いないのだから。

彼をまるごと所有したい。希いは日ごとに強くなる。
鎖が欲しい。彼の心を絡めとり、自分の下に縛り付ける鎖が。




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すいません。離れなんですが、ぬれ場の描写に挫折しました。
でも頭に浮んだイメージの八割は書けたからまあいいかという気もします。
・・・続きます。たぶん。続けたいです・・・(願望)
まだ高耶さんの「た」の字もでてきていませんから(笑)せめて互いに名前を呼びあうとこまで…・




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