ずいぶんと長いこと直江と旅をしたというのに、背中の傷をまともに見たのはその日が初めてだった。 互いに不在だと思い込んでいてなにげなく開けたドアの向こう、 着替えの途中か、無防備にこちらに向けられていた背中。そこに広がる一面の傷痕。 切り裂かれた何条もの筋と、処々深く何かで抉れたような窪み。 一度きりではなく何度も繰り返し負ったのだろう、すでに目立たないものやまだ赤黒く色の残るものまで、無数の。 その無残さに、思わず高耶は息を呑む。 時折、布地越しに感じるあばたのような感触を不審に思うことはあった。 けれど大抵そんな時は考える余裕がないほど追い立てられていて。 迂闊にも今まで気づかないままでいた。 でも、いったい何故?そして誰が彼にこんな仕打ちを? 呆然として戸口に立ちすくむ高耶に、直江もまた瞬間しまったという表情をする。 が、取り立てて急ぐ様子もなく身じまいを終えると、改めて高耶に向き直った。 「見苦しくてすみません。……吃驚したでしょう?」 でも見た目ほど酷くはないんですよと、そういう直江はもういつもの穏やかさで。 「直江…」 ようやく高耶は言葉を搾り出した。 「なんで、そんな……いったい誰に?」 以前は確かになかった。 そして、瀕死の太刀を受けたのは胸だったはず。 いくら考えても合点がいかない。 まるで自分が痛みを堪えているように唇を戦かせる高耶に、直江は静かに微笑んだ。 「誰のせいでもないんです。……強いて言うなら自業自得ってとこでしょう。 警告されていたにも関わらず結界を破ろうと挑んだ結果がこのザマですから……」 「……結界?」 ぴくりと高耶が肩を揺らす。心当たりはひとつしかなかった。 「じゃ、あの僧房で…?」 怯みながらも確かめずにはおれない風情で言い募る高耶に、直江の笑みは憂いを帯びて一層複雑なものとなった。 できることなら触れずにおきたかった話題だった。自分ではなく高耶のために。 が、いつまでも隠し通せるはずもなく、実際こうして見られた以上はぐらかすわけにもいかない。 高耶を促して寝台に座らせると、直江は、言葉を探しながら訥々と語り始めた。 「死にかけていた私を、陛下が密かに匿ってくださったのはもうご存知ですよね。 あなたについて陛下に語る代わりに、陛下もご自分の血筋とあなたの素性について、様々に打ち明けてくださいました。 そうしてやっと事実が見えてきたんです。 ……あなたのことを、私は、北条殿に金で買われて仕えているのだとばかり思っていた。 だからあの時、報酬としてあなたの身柄を申し出た。 けれど、そうじゃなかった。 あなたは紛れもなくあの人の血筋で、あろうことか北条殿はその血の繋がった弟君を余人の閨に供していたと知って、 腸が煮えくり返る思いがした。 段取りなど踏まずにひと思いにあなたを攫って逃げればよかったと、何度悔やんだか知れない。 今からでもかまわない。動けるようになったらすぐにでもそうしようと密かに決めていたんです。 でも、そんな私の胸中を陛下はお見通しだったんですね。床払いするやいなや、私の扱いは怪我人から囚人のそれに替わりました。 おとなしく閉じ込められていろ、 私はあなたを取り戻すための大事な駒、勝手に振舞われては困るというわけです。 なんとかして抜け出そうと試みるたび、結界に弾かれて……御覧の有様です」 「でも、こんな、酷い……」 俯いたまま、まだ痛みはしないかと恐れるみたいにおずおずと触れてくる。 暗に譲を非難する物言いに、なだめるように直江が応えた。 「陛下は公正ではあるけれど優しくはありませんから。私は私で物分りのいい臣下ではありませんでしたし」 お互いさまですと苦笑するのをちらりと見上げて、高耶はまたすぐに悄然と面を伏せた。 「全部、オレのせいだ……」 ごめん、と。 消え入りそうに呟くのが、痛ましくてならなかった。 彼の咎ではありえないのに、彼の生い立ちは今も高耶を苦しめている。 死を選ぼうとした露台、そして一転自らを恥じて消えようとしたあの僧房と同じに。 龍の魂を持つものは大概が無垢で晩生で情が深い。だから往々にして尽くすに値しない人間に己を委ね囚われる悲劇が起こる―――そう、譲は言っていた。 彼にしては珍しく焦燥の色も露に。 北条と高耶の関係もそうだったのだろう。 気まぐれか打算か、北条の示したひとかけらの優しさに高耶はほだされ、一途に慕って成長した。 道具に甘んじ身を売ることも厭わないほど。軋み悲鳴をあげ続ける心の声には耳を閉ざして。 そうして生きてきた彼が切なくて愛しくてやるせなくて。 小鳥を囲うように、そっと高耶を抱きしめた。 「……あなただって、痛かったでしょう?血を流すよりも、ずっと。辛い痛みに耐え抜いてそして私を選んでくれた。 それで充分です。こんな傷なんかなんでもない。だから、どうか、もう、あなたも……」 過去は消せない。 彼の性格では忘れきることもできない。 この傷を見るたび、彼の抱える自責の念はこの先も悪夢のように蘇っては彼を苛むかもしれないけれど。 それでももう決して一人にはしない。いつだって傍にいる。だから、どうか苦しまないでほしい。 「愛してます……」 想いをこめて告げた言葉に応えはなかった。 うつ伏せた視線が交わることもなかったけれど、回した腕に縋る手にぎゅっと力がこもって、その仕草が言葉の代わり。 稚い返事に、触れるだけのキスを幾つも落として、そうしてゆったりと時間は過ぎていった。 |