その招待状が届いたのは、直江が、高耶と暮らし始めて一年が過ぎた頃だった。 前年に亡くなったイラストレーターの追顧展。 この画家と面識はない。 同じ出版社の雑誌に連載を持っていたりして名前と作品を見知っている、その程度の間柄だ。 その繋がりも、彼が隠棲してからは絶えて久しい。 それがなぜわざわざ自分に? 戸惑いながら、会場に足を運んだ。 こじんまりとした画廊だった。来客もそう多くはなく飾られる花篭も控えめなのは、この催しが出版社を介さない一個人の主催だからだろうか。 しめやかな雰囲気のなか、 発表年順に並べられた作品をおざなりに眺めながら順路にそって進むうち、やがて展示は画家の晩年、隠棲後に描かれたコーナーに移った。 その最初の一枚で、息を呑んだ。 構図だけでいえば、何の変哲もない木立の風景。 それなのに、観る者を圧倒するこの迫力は、いったい何処からくるのだろう? 一瞬、梢を揺らす薫風がそのまま身の裡を吹き抜けていったような錯覚に陥って、思わず胸に手をやった。 正確で繊細なタッチは、まさしくこの画家のもの、けれど、それまでとはまるで違う何かが画布に宿っているようだ。 慄きに似た気持ちで次の絵の前に立つ。 瀟洒な造りの家の全景と前庭が描かれていた。 どうやらこの一連のモチーフは最後に画家が暮らした家とその周辺の風景らしい。 招き入れられるようにして、心が、絵の中の『家』へと入っていく。 続く室内の数枚は無人だった。それでもテーブルの上に飲みさしのマグがあったり、ドアが半分開いていたり。たった今までそこに誰かがいたような人の温みが伝わってくる。 画家が一人で住む家ではないと、直江は思った。 本人だけならこんな絵は描けない。きっとこの家には別の誰かが画家と一緒に暮らしていて、その誰かのために、彼はこの絵を描いたのだ。 此処がどんなに温かくて自分がどれだけ幸せか、その想いを伝えるために。 次の絵の中に、そのひとはいた。 レースのカーテン越し、陽射しの降りそそぐ窓の傍、大きな安楽椅子に寛いで。 あんまり暖かくて気持ちよくてうとうとと寝入ってしまった、そんな風情で首が傾ぎもたれたクッションに半ば顔を埋めている。 露わになった首筋から耳、頬にかけてのラインがとても綺麗で、しかし、故意か偶然なのか、額に黒髪が落ちかかってその顔立ちは窺えない。 でも、これは――― (高耶さん!?) 心の中で、思わず叫んだ。 「・………彼をご存知ですか?」 どれだけその場に立ち尽くしていたのか、声を掛けられて、我に返った。 熊を思わせるように大柄な、壮年の男性が立っていた。受付で見かけたような気がするから、おそらくは関係者の一人なのだろう。 「……いえ、ちょっと知り合いに似ているような気がして……」 直江は強張った笑みを浮かべ、曖昧に言葉を濁す。 高耶のはずはない。他人の空似だ。 そう、己に言い聞かせる。が、ともすれば視線が引き寄せられるのを、自分でもどうしようもなかった。 観れば観るほど、絵の中の少年は高耶でしかあり得なかった。 それならば、何故? いったいどんな係わりがあって高耶がこの画家のこの絵の中にいるのだろう? 湧き出るのは疑問符ばかり。混乱してしまって考えがまとまらない。 心あらずのそんな様子を惑乱にしばらく無言で見守った後、目の前のその男性は、時間を少々頂きたいと、直江を慇懃にお茶に誘った。 席を移した後、改めて、男性は佐々木と名乗った。画家の友人で、隠棲先での最期も看取った医師だと言う。 行きがかりで相続もしてしまったと、小さく笑った。 受付で見かけたのも道理、この男が個展の責任者だったのだと、遅まきながら直江は気づく。 畑違いのことでもあるし、開催にこぎつけるまでにはさぞかし気苦労が絶えなかったろうとねぎらうと、実直そうなこの医師はいやいやと片手を振った。 「一切合財を受け継いだからには、彼の気懸かりも、想いの行く末も、見届ける義務がある。その一念でした」 含みのある言葉だった。そして真摯な顔をしていた。互いの真意を探るように、向かい合ったテーブル越し、直江と医師は見つめあう。 「ひとつ、失礼を承知でお伺いしたい。先ほどあなたが仰っておられた『知り合い』…その彼とあなたはどういうご関係ですか?」 本当に不躾な質問だ。だが、直江は返事を躊躇わなかった。 「彼は私の伴侶です。一生をともに添い遂げたいと思っていますし、幸い、彼も同じ気持ちでいてくれます」 同性同士という微妙な関係を恥じるでなくむしろ誇らしげに言い切った直江の言葉を予想していたかのように、佐々木は深く頷いた。 そして、直江に茶封筒を差し出しす。 「?」 促されて中をあらためてみる。 中味は小ぶりのスケッチブック。 表紙を開いたとたんに、高耶の笑顔が飛び込んできて、今度こそ直江は度肝を抜かれた。 自分の知る彼よりは少し幼い。人間の姿で出逢った一年前よりも更に。でも、それは紛れもなく高耶自身で、同時に絵の中のあの少年だった。 満面の笑顔。 照れ臭そうな微笑。 不満げな膨れっ面。 怒り心頭に発したように眦吊り上げて睨む顔。 直江にはどれも見慣れた表情の高耶が、紙面の向こうから次々と現れてはこちらを見つめている。 「いったい、どうして―――?」 「もうひとつ、教えていただきたい。あなたの傍にいて―――彼は、あの子はこんなふうに笑っていますか? 泣いたり怒ったり、普通の暮らしをしているんでしょうか」 絶句した直江に構わず、佐々木は畳み掛けるように重ねて問うた。 声もなく頷く直江の瞳を静かに覗き込む。 「何故そんな当たり前のことを訊く?そんな顔をしていらっしゃる。でもね、直江さん、あなたの思う当たり前が あの子と私らには当たり前じゃなかったんです」 落ち着いた声音。穏やかな表情。 それなのに自分をひたと見つめる眼差しは、まるで炎と氷のそれだ。 憎まれてでもいるようだと、そう思った。 激情の閃きを次の瞬間には押し殺して、佐々木は更に言葉を継いだ。 「その絵の中の彼は、あいつが想像で描いたものです。 私らは彼の笑った顔を知らない。泣いた顔も、怒った顔も。 三年前に出逢ったときには、すでに彼は、すべての感情を喪していましたから……」 雨の日の邂逅から数週間の入院を経て明らかになった彼の容態。 その元凶ともいえる仕打ちの推測。それを承知で手元に引き取った男との同居。 佐々木は淡々と、それまでの経緯を語った。 自らの死期を知っていた男が、心の壊れた高耶をどれだけ慈しみ、大切に想っていたかを。 語りながら、佐々木は男泣きに泣いていた。 高耶と暮らした二年足らずの間、死んだ友人が幸せだったのは間違いない。それでも、もうこの世にいない彼が、哀れで可愛そうで悔しくてならないのだと。 かけるべき言葉などなかった。 男が高耶に与えてくれたものの大きさに、ただ黙して頭を頭を垂れるしか。 最期に、歯を食いしばるようにして、佐々木は言った。 「あいつが死んだのは誰のせいでもない自身の天命です。そして潔くそれに殉じた。運命を恨むことなく。 でも、直江さん、あいつは、叶うことならあなたになりたかった。あの子を守りながら生涯を暮らしたいと願っていた。 そんなふうに思いながら果たせずに死んでいった男がいたことを、どうか忘れんでやってください」 忘れられるわけがない。 直江が高耶を育て喜びに包まれていたのと同じ年月、感謝の笑みひとつ貰うことなく器を守りつづけていてくれたその献身を。 きっとどちらが欠けても今の高耶はこの世に存在しなかった。 画家は、もうひとりの自分だ。 まだ雑用があるからと直江の手にスケッチブックを残したままで、佐々木は画廊へと戻っていった。 彼に認められたのだと、画家の想いを託されたのだと気づいたのは、冷え切って泥水のようになった 珈琲を飲干した時。 はじめて嗚咽が零れ出た。 佐々木によって公表された一連の風画は、後に画家の代表作と言われるようになった。 唯一そこに描かれた人物が誰なのか、一時はかまびすしかった世間の流言もやがて途絶えた。 高耶は何も知らないままだった。 彼に知らせる必要はないと直江は判断し、おそらくは佐々木もそう思うからこそ直江だけを招いて確かめたのだろう。 彼が幸せでいるのなら――― いまさら記憶すらない過去を蒸し返すことはない。 重荷を背負うのは高耶を手に入れたこの男だけでいいと、死んだ友人のために多少の意趣返しをこめて。 それでも或る日、高耶は突然、この絵の精巧な複製を買ってきて、直江を驚かせた。 バイト代三ヶ月分を注ぎこんだんだとはにかむように笑って、彼はいった。 「風とか林の緑の匂いとか。つたわってきそうだろ?オレ、この絵すごく好きだから……だから直江にも気にいってもらえると嬉しい。 いつか本物を観にいこうな」 懐かしくいとおしいものをみるように眼を細める彼の仕種に、万感の思いがこみあげる。 「これを描いた絵描きさんはもう亡くなったはずですが……。高耶さんの今の言葉を聞いたら大喜びなさるでしょうね」 なにをおおげさな、と、高耶は顔を顰めてしまう。 「そんなん、日本中で何万人と思ってるだろ?いまさらオレひとり増えたって変わんないよ」 「それでもですよ」 私も嬉しいです。ありがとう。 そう真顔で微笑むと、今度は照れ臭くなったらしい、俯いて赤くなった。 そのままお茶の仕度を口実に逃げ出されて、直江は一人、絵と向き合う。 (あなたの想いはちゃんと彼に届いている……) 慈しまれた日々を、ちゃんと身体は憶えている。 過ぎし日の男の希は叶ったのだ。
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