相変らず、彼の瞳は何も映さず俯きがちのその貌に感情がよぎることもなかったけれど。 時折、本当に何の前触れなく突然に、彼が微笑むことに男は気づいた。 それは、水面に煌めく残照のように見る間に消えてしまう、儚い一瞬。 そして、天空に浮ぶ虹の半環と同じぐらい鮮やかで美しい、刹那の瞬間だった。 彼は精神を病んでいるわけではなく、魂そのものが身体から抜け出ているのではないか――? ともに起き伏しするうちに、男の中で、そんな思いが次第に形を為してくる。 医学的にあり得ないと医師には一笑に付された。それでも。 『観る』ことに長けた絵描き特有の直感が、男に囁くのだ。 この少年に心はない。そこには虚ろがあるだけだと。 魂の抜け殻を擁く空蝉の身体。それが目の前の彼。 そして彼の魂は何処か遠くを彷徨っていて幸福に包まれているのだろう。 幻影にしか見えない地平の蜃気楼が、その実、離れた地に実景を持つように、 彼方にある彼の想いが、この身体を微笑ませているのなら。 彼が身体に戻ることはあるのだろうか。 叶うのならば、どうかその日が一日でも早く来るようにと、男は念じる。 彼の身体は、喪した魂をとても恋しがっているから。 彼は、度々、夜の静寂に涙を流す。 彼の抱える胸の闇が、夜更けの静謐に境界をなくして夜そのものに溶け出すように。 溢れる涙で、その虚を埋めようとでもするように。 抱きしめれば、涙は止まる。 そして彼は、再び夢のない眠りに落ちていく。傍らの自分の温もりを縁に、昏いわだつみの底に。 彼が愛しくて痛々しくて、とても泣かせたままにはしておけない。 けれど、そうやって眠りに沈む彼を見るたび、彼を救ってやれない己の無力に胸が疼いた。 彼の生きた表情がみたいと、切実に男は希った。 泣くのでも笑うのでも怒るのでもいい、彼のこの貌に浮ぶ様々な素の表情がみたいと。 その衝動が、男に再び絵筆をとらせた。 夢想する願望をひたすらに描き留める。 彼の証、そして自分の証を、せめて画布に印したかった。 うたかたのように、月日は流れる。 日に一度の定時連絡だけではなく、時々、ひょっこりと手土産を携えて医師がこの家までやって来る。 少年の様子をみるだけでなく、何度か体調を崩した男の容態を気遣って、だ。 それを互いに解っていながら、口にはしない。 それが男にはありがたかった。 「遺言を書こうと思う」 何度目かの訪問で、ケーキと紅茶を前に寛ぐ幼なじみの友人に、茶飲み話のついでのように、男は言った。 「俺の自由になるものは、すべて、おまえに残したい。両親や兄姉にもきちんと話して納得してもらう。後顧の憂いはないようにするから。 だから、どうか、受け取ってほしい」 唐突な申し出だったが、医師はたじろがなかった。縁起でもないことと、遮りもしなかった。しばらく無言で男を見て、そしておもむろに口を開いた。 「その代わり、この子の面倒を俺がみるのか?」 「察しのいい友達を持つと助かるな」 と、男は破顔し、すぐに真顔になった。 「おまえにしか頼めない。彼を頼む」 「いっそ養子にしようとは思わんか?書類なら俺がなんとでも整えてやる。正式な相続人にしてしまった方が安心だろうに」 物騒な台詞を吐く医師に、男は緩くかぶりを振った。 「彼を縛り付けたくない。或る日正気に戻ってみたら、自分がまったく知らない他人の身内になっていた、なんていうのは嫌だろう?」 「まだ、あんな夢みたいなことを信じてるのか?」 魂云々という男の持論を思い出して医師はため息をつく。 「ああ、信じてる。そしておまえのこともだよ、佐々木。おまえは病人の最後の願いを無下に断るほど人でなしじゃないはずだからな」 透明な眼差しでまっすぐに言われて、佐々木と呼ばれた医師は大仰に顔を顰めた。 「知ってたか?俺は昔から、ねちねちと断りきれないように人を追い詰めるおまえのそういうところが大嫌いだったんだ」 「そりゃ残念。俺はきっぷがいい兄貴肌のおまえが大好きだった……羨ましかったよ。ずっと」 昔のあれこれを思い出して、くすくすと男が笑った。 そして再び、頼む、と、重ねて頭を下げられて、医師は、渋々、首肯する。 「だけどな、安心したあげくにあっさり逝ったら承知しない。それだけは覚えとけ」 男は黙って微笑んで返事の代わりにする。そしてあてがわれたミルクを飲み終えて、おとなしく側に控えていた少年を促して、彼を休ませるために席を立った。 血の繋がりもなく恋人でもなく、それでも最後まで庇護し続けようとする、掌中の珠。 この男は、一分でも一秒でも長くこの少年の傍にいるためだけに病と闘う気なのだろう。 一途な想いが、真摯な覚悟がその背中から読み取れて、静かに閉ざされたドアを見つめる医師の双眸からは、熱いものがふきだしていた。 身体の具合が思わしくない。 男の不調が伝染したかのように、彼もどこか落ち着かない。 まるで貰いたての猫のようにうろうろと歩き回っては部屋のあちこちにぶつかっている。 こんな反応は初めてで、だが、男にも彼の様子を訝しがる余裕はなかった。 無造作に積んだ雑誌が落ちて散らばるのをすり抜けながら、ようよう、彼の傍に行く。 痛みを堪えながら、彼の瞳を覗き込んだ。 「大丈夫。あなたも知っているあのお医者が来てくれます。だから何も心配しないで」 瞳の色がいつになく濃い。 彼なりに変化の予兆を感じ取っているのだろうか。 彼の頭越し、大波が襲い掛かってくるような幻覚とともに、不意に男はその意識を失った。 それが、男と彼の最期だった。 医師が到着したとき、少年の姿は何処にもなく、部屋には、昏倒した男と引き裂かれた雑誌の残骸が散らばるだけだった。
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