シュネービッチェン




目覚めたとき、傍らに、男の姿はなかった。
ぼんやりと目の前のからの枕を眺め、それから足元に寄せられた上掛けに視線を移す。
寝乱れた跡の残るシーツに掌を滑らせてみてもひんやりとした感触しか伝わってこない。
もう、起きだしてから、だいぶ時間が経つのだろう。
いつものことだから慣れてしまったといえばそれまでなのだけれど、夢うつつに感じていた人肌の温もりがこの手からすり抜けてしまっているのはすこし寂しい。
その一方で、肌を合わせた相手といきなり顔をつき合わせて赤面しなくてすむことにほっと安堵する思いも確かにあって、自分の中の背反する二つの感情を持て余すように、高耶は主のいない枕を抱きしめた。

かすかに直江の匂いがする。

その残り香に、ゆうべの余韻が甦って頬が赤らんだ。
身悶えしたい衝動に駆られて、表情を隠すように枕に顔を埋める。
抱きしめる腕に力がこもる。
ふわふわと頼りない羽毛の質感は、香りの主との違和感ばかりが際立って、高耶をますます切ない気分にさせた。

全身の感覚で覚えこんだ直江の存在は、ちょっとした刺激ですぐさま溢れ出てしまう。本物が欲しい気持ちを抑えられない。
以前は無理やり押し込めてひた隠しにしていた恋慕の情がどんどん剥き出しになっていく。

そうしていいと教え込んだのは直江だった。
言葉ではなくその態度で。

―――大丈夫。いつもそばにいるから。 だから、もう少し肩の力を抜いてごらんなさい。
素のままの自分を曝すのはけっして恥ずかしいことじゃない。
甘えて、もたれかかって、あなたの背負う重荷を私にも預けて……。

自分が自分でなくなりそうな恐怖にしり込みして拒む高耶に、根気よく睦言のような抱擁を繰り返す。
そうして、夜を過ごすたびに、高耶の殻を剥ぎ取っていった。
明け方、わざとベッドを抜け出すのは、直江の高耶に対する気配りだ。

闇にくるまれて睦みあうことに慣れはしても、朝がきてしまうと、羞恥のために視線も合わせられなくなる。そんな高耶を庇うように、夜のことはおくびにも出さず、ゆるゆると日常に戻っていく態度をずっと直江は続けていた。
そんなふうに柔らかく守られて、少しずつ高耶は変わっていく。

目覚めた時に、抱かれていた温もりを恋しく思うほどに。

――もういいから。大丈夫だから。目を開けたときに一番におまえの顔が見たい。
  眼を逸らさずにちゃんと微笑っておはようを言うから……。

身代わりの枕を腕に心の中で思う。
……だから、朝までずっと一緒にいて欲しいと。

このまま起き出して本物の背中を抱きしめたら、直江は気づいてくれるだろうか。今の自分の正直な思いを。

確信があった。

足音を忍ばせて入ったリビングに直江の姿はなかった。
耳を澄ますが、シャワーの水音も聞えない。
やはり無人のキッチンからはパーコレーターの立てる微かな蒸気の音と、珈琲の香りだけが漂ってくる。
怪訝に思って振り向いた吐き出し窓の向こうに探していた人影を見つけて、ようやくほっと息をついた。

そっと近づいて、こんこんとガラスを叩く。
驚いたように中腰で振り仰いだ男に笑いかけてから、静かにガラス戸をあけた。

「もう起きたんですか?」

眩しそうに自分を見上げる直江の顔を間近にしたとたん、先程までの決意はあっけなく崩れ去ってしまった。

「…ん。……何してたんだ?……この鉢植え、ひょっとして、薔薇?」

矢継ぎ早に云いながら、直江を押し退けるように屈みこむ。
照れくさくて顔をまともに見られない。
それでも避けているわけではない証に、寄り添うようにして背中を直江の胸元に預けた。
場所を譲るために位置を後ろにずらした男が目を見張る。
いつもとはすこし違う、甘えるような高耶の仕草に微妙な心の動きを読み取ったのか、その顔にかすかな笑みがひろがった。

ベランダには、この間まではなかったテラコッタの大鉢が幾つも置いてあった。
そのひとつひとつに指の太さほどの薔薇の苗が植えられている。

「なんだか……貧弱だな。ちゃんと育つのか?」

正直な感想に、思わず苦笑が洩れる。
冬場の剪定で思い切りよく刈り込まれた枝の先端から、今、ようやく新芽が萌えだしたところだった。

「……大丈夫。心配しなくてもすぐに伸びて葉が繁ります。一月もすれば花も咲きますよ」

「でも、なんでいきなり…?」

視線は薔薇に向けたまま、高耶が訊ねる。
あれほど殺風景な部屋に独り平気で暮らしてきた男が。
言葉にしなくても高耶のいいたいことは伝わってきた。

「なんでって言われても……困りましたねえ」

接ぎ穂を探すように言葉が途切れた。
その間に、さりげなく両手を高耶の肩に置く。
「実家にね、白いつるばらがあるんですが、何気なしにベランダにひとつ欲しいと言ったら、母が張り切りましてね。頼みもしないのに留守中に押しかけてきて全部植え込んでくれたんです」

「ふうん」

過保護なくらい手を掛けられて育ったと、いつか聞いたことがある。さもありなんと聞き流して気のない相槌を打った。
そんな高耶に直江が爆弾を落とす。

「どうやら、部屋に通う女性が出来たと思われたらしい」

「っ!」
ぎょっとして振り返った。

その拍子に軽く触れていただけの手が外れて、自然と抱きすくめられる格好になった。
真っ赤になって見上げると、すぐ上に、悪戯っぽく微笑う直江がいた。

「潤いのない部屋に暮らしていた息子が急に花なんか欲しがったものだから……
……期待させてしまったんですね。そんな女性はいないと何度も言ったのに信じてもらえなかったらしい。とうとう実力行使にでたんでしょう。薔薇は単なる口実で、たぶん、部屋中隅から隅までチェックしてますよ。女物の化粧品や、ブラシや、ピンや…証拠になりそうなものを」

「おふくろさんって、そこまで過激なひとだったっけ?」

「いいえ。普段はそれほどでも。でも、テキは姉を巻き込みましたから……。
手ごわいですよ。これは。長期戦を覚悟したらしくて、三日以上家を空けるときは、勝手に入って薔薇の世話をするからと宣言されました。腰の落ち着かない放蕩息子に今度こそ引導を渡す気でいますね」

他人事のように言う直江に、高耶の方が頭を抱える。





つづく


初めて発行したかわら版です。バラ園で夜叉衆の面々を花に例えて遊んでいるうちにこんな話が生まれました。
私のイメージでは千秋はゴールデンメダイヨン。ねーさんはバレンシア。
直江がマウント・シャスターでした。さて、高耶さんは?……続きをどうぞです(笑)



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