「……忘れてしまいましたね。そんなこと」 苦笑まじりに直江が言う。 同じ五月、ただしあれから十年も経った今日の天気は陽射しのない鈍色の空。 そして今はふらりと出た散歩の途中。 「ほんとに?」 肩を並べた高耶が首を傾げる。 「でも、オレは憶えてる。あの時のきらきらした風も光も庭の緑も。すごく楽しそうな冴子さんも。……直江のちょっと焦った様子も」 くすりと笑う気配にまた例の話を蒸し返されるのかと思った。 けれど。 「ごめんな」 そう、彼は続けたのだ。 「あの時はチビすぎて解んなかったけど。いいオトナになったのにあんな昔話持ち出されたらたまったもんじゃないよな。直江に悪いことしたなって、 自分が大きくなってやっと気がついた。今さらだけど、からかうような真似をして、ごめん。……でもな」 見上げてくるのは、真摯な色を湛えた黒曜の瞳。 「直江にはおもしろくなかったかもしれないけど。でも、あの時のオレは、赤ちゃんだったときの直江の話聞けて、嬉しかった。 季節に恵まれただけじゃない。直江は、生まれたときから本当にみんなに愛されて大切にされていたのが伝わったから。 そんな直江がオレの傍にいて大事にしてくれるのが、信じられないくらい幸せだと思った。だから……」 暫し言葉を切って彼は俯き、それから再び面をあげる。 「あの時の庭の眺めも、風も、陽射しも。隣りにいた直江も、冴子さんの笑い声も。オレには全部ひっくるめて宝物だから。 ……一生、忘れない」 「……」 まったく、信じられないほど幸せなのは自分の方だと直江は思う。 こんなにも。 自分は高耶から、こんなにも溢れるぐらいの幸福をもらっているのに。 「おまえといると、どんどんそういう思い出が増えてく。この散歩だってそうだ」 さらに重ねてそんな嬉しがらせをくれるから、もう、どうしていいか解らなくなる。 「朝っぱらから、泣き出しそうな曇空なんて、普通は鬱陶しいだけじゃん?でも、ひんやりしてるせいかな。 五月の朝の空気がこんなにしっとりしてて芳しいなんてしらなかった。花の匂いみたいな気がするんだけど……あれかな?」 そう言って天を振り仰ぎ、彼が泳がせた目線の先には若葉の萌えだした雑木林。 その瑞々しい新緑の中、遥かな高みの梢に零れんばかりに白い花房をつけている高木がある。 大きく息をついて、ようやく直江が言葉を発した。 「……ウワミズザクラですね」 「へえ。そういう名前なんだ?やっぱおまえってすっげー物知り」 今さらながらに照れ臭くなったのだろう、今度の高耶の声には揶揄するような響きがあって。 だから直江も調子を合わせる。 「私だってここまで香る花だとは思いませんでしたよ。気づいたのは高耶さんのおかげです。でも…」 思わせぶりに声を低めた。 「でも?」 「夜だともっと香るらしいです。今晩にでも離れに泊まってふたりで確かめてみましょうか?」 言外に潜ませた意味に高耶が気づくまで少々の間。 「……バカヤロー!出来るかっ!そんな真似!!」 真っ赤になって怒鳴りつけそのままずんずん歩き出す高耶の後を、くすくす笑いながら直江が追いかける。 ふたりの歩みが香りの溶けた大気を巻き上げ、馨しい風となる一瞬。 それは、すばらしい季節の朝まだきの風景――― |