心が壊れてしまうほどのいったいどういう事情があったのか、高耶は口にしなかった。 おまえのもとで生まれ直したのだからもう過去は関係ないと。 だが、後に、思いがけない訪問者がこの家を訪れて、高耶の話を裏打ちすることとなった。 先走った一部の親族が高耶に加えた非道にたいして、頭を垂れて許しを請う『兄』と名乗る人物を、高耶は穏やかな眼をしながら断固として拒絶した。 どんな償いでもするからという申し出に、たったひとつ、自身の戸籍を除いてもらうことだけを望んで。 名門に連なるその名前はもう要らない。直江の傍で高耶という名前で生きていきたいからと。 「いいんですか?」 淋しそうに立ち去る後ろ姿を見送る高耶に直江が問う。 「慕っていたのでしょう?あの人を。少なくともあの人はあなたの味方だったはず。そんな瞳をしていました」 「うん。好きだったよ。とても。あの人だけがオレに優しかったから。でも……」 ゆるゆると首を振る。そして遠い眼をして微笑んだ。 「オレの記憶はここから始まっているから。もう、いいんだ……」 パーゴラからの木漏れ日がちらちらと揺れる。 木陰で転寝を愉しむ至福のひととき。 夢うつつに感じていた、まなうらに踊る光が遮られたのにふいに気づいて、ぼんやりと瞼を上げれば、上から直江が覗き込んでいる。 「……夢をみてた」 「夢?」 「うん。……昔、ここに来たばかりの頃の夢」 ふわりとなんともいえない微笑がその顔に浮ぶ。 「……しようぜ」 男の首に腕を投げかけ、顔を近づけながら高耶が言った。 「高耶さん?」 「……今、発情期なんだ」 「春はとっくに過ぎてしまいましたが……」 ほんの少し眼を見開いてわざとらしく返した直江に、高耶だって負けてはいない。 「あれ?知らないのか?飼われてると季節に関係ないんだぜ?」 あっさりと言い返して、悪戯っぽく見上げる。 その煌めく瞳に幻惑される。 「……場所を変えましょう。ここじゃどうも落ち着かない……」 キスの合い間の囁き。 了承のしるしにもう一度軽く唇を触れ合わせ、高耶が庭を振り返る。 さわさわと香草の葉叢が揺れている。 微風は、今日も芳しい香気と優しい子守唄を運んでいた。 |