イノセントガーデン
―1―





―――お願い。一週間だけこの仔の面倒を見て。

立て続けに鳴り響く忙しないチャイムの音に不承不承ドアを開けると、聞き慣れた声でこんな台詞が耳に飛び込んできた。
一瞬何を言われたのか解らなかった。
呆気にとられ、これは新手の冗談かと相手の顔を窺えば、このうえもなく真剣な表情を返される。
どうやら、自分は何か動物の世話を頼まれているらしい。
大事そうに胸元に抱えた箱に目がいってようやく言葉の意味を理解したとたん、顔が強張るのが判った。なんとも面倒なことを―――と。そう思った。
自分に対して余計な錯覚も期待も持たない貴重な飲み友達の女友達。
お互い助言はしても介入はしない。そんな暗黙の了解が成り立っていたはずなのに。
こんな真似はルール違反だ―――そう腹立たしくもあった。
だが、それは綾子本人が一番感じていたことかもしれない。
一気に事情をまくし立て、箱を押し付けると脱兎のごとく再び飛び出していってしまった。まるで、つき返されるのを畏れるみたいに。

その問題の箱の中には生まれたばかりの仔猫が一匹。
仔猫といっても愛くるしさとは程遠いグロテスクな代物だった。
ぺたりと皮膚に貼りついた貧相な毛並み。眼球が透けてみえる閉ざされたままの瞼。ぐにゃりとした力ない身体とほそい小枝のような脚。
生きて呼吸しているのが不思議にみえた。
綾子にしてみれば窮鳥の思いで自分を訪ねてきたのだろう。 だが、その頼みを聞き入れるつもりはさらさらなかった。
どう考えても引導を渡したという獣医の判断は正しい。こんな頼りないものが無事に育つとは思えない。
となれば手を掛けるだけ時間と労力を無駄に浪費することになる。気の毒だが、これが天命というものだ。

―――そう、最初は、本気でそう思っていた。

それでも、ただ放置したまま死なせたのでは寝覚めが悪い。
ミルクの用意をしたのは、一応努力はしてみた。そう言い訳するためにすぎなかった。
自力では吸い付けないかもしれないという指示通りに片手に注射器片手に仔猫というおっかなびっくりの格好は、我ながらかなり滑稽だったと思う。
掌にすっぽりと収まった仔猫は驚くほど軽く、そしてほのかに温かかった。
何かを察したのか懸命に四肢を突っ張り身をよじろうとする。壊れかけたぜんまいの玩具のように緩慢な動きで。引掻いてでもいるつもりなのか、かすかに蠢く足先の仕種が微笑を誘った。
こんなに無力なのに。―――急に湧き上がってきたのは嘲りというよりは憐憫の情だったのかもしれない。
ちょっと力をこめれば容易く奪える小さな命。
気持ちひとつで簒奪者になるかもしれない男の掌の上で、無心に存在を主張している……。
「ほら、ミルクだ……頼むから上手く飲んでくれよ」
気がつけば、そんな風に声をかけていた。安心させるように。まるで生き長らえるのを望んででもいるように。
そう、気持ちは確かに動いていたのかもしれない。
注意深く口をこじ開け慎重に押し出した中身は、しかし、すぐに口元から溢れ出した。
薄い毛並みを伝ったミルクが仔猫の身体と自分の掌とを濡らしていく。
少量の液体はたちまちさめて冷たくなった。その不快さがやけにリアルに死というものを連想させた。
やはり飲み込めないほど衰弱がすすんでいるのか……。
期待を掛けた分だけ、未練がましい思いが残る。
それを振り切って箱に戻そうとした時、奇跡は起こった。
口の端に留まっていた白い小さなミルクの珠が、吸い込まれるように口の中に消えていったのだ。

―――飲んだ!

たったそれだけのことが、なぜあんなにも嬉しかったのか。
理屈をこねて理由付けをしたのはずっと後になってから。そのときは無我夢中だった。
長い長い時間をかけ一滴一滴垂らすようにして、喉の奥へと流し込む。
注射器の中身がようやくからになった頃、もう仔猫はぐんにゃりした肉の塊ではなくなっていた。
この世にたったひとつのかけがえのない存在。  それが『高耶』だった。


『彼』に逢った瞬間に、そうだと解った。
こんなところにいたのかと、こんな姿になったのかと、どうりで探しても見つからないはずだと、妙に得心している自分がいた。
あり得ないこと。
馬鹿げた妄想。
『彼』にとっても迷惑以外のなにものでもないかもしれない執着。
そう理性の一部は叫んでいても、目の前に在る瞳には抗いようがなかった。
もう一度、『高耶』ともに過ごせるのなら。何を引き換えにしてもいい。
その一念は、まさしく岩をも貫き通す堅固さで、結局、その願いは叶えられた。
『彼』とふたり、この家に帰ってくることで。




次へ




補足というか回想というか、続き物はこういうパターンが多いかも





BACK