しんしんと底冷えのする夜だった。 雨戸をたてた暗い廊下に障子にはめ込まれたガラスから晧々と部屋の灯りが洩れている。 中の様子を窺うように覗いてみれば、こんもりと盛り上がった布団が見える。寝入ってしまったらしいこどもたちの様子に安堵しながら、 物音を立てないよう静かに室内に滑り込んだ直江は、死角になっていた部屋の片隅にうずくまる影にぎょっとなった。 高耶は眠ってはいなかった。 席を立った数時間前、座敷で見たのと同じ姿勢で壁に背を寄せている。膝の中に顔を隠したままで。 「今夜はもうお休みなさい。詳しい話は明日にしましょう」 近づく直江の気配にも顔を上げない少年に宥めるように呼びかけた。 「ごめん……」 くぐもった声がした。 「直江には迷惑掛けたくなかったのに……美弥のこと考えたらここしか来るとこなくて。……結局迷惑かけちまう」 「まっすぐにここに来てくれてよかった。この二月の寒空にあなたがたを探し回るはめにならなくて」 少し迷ったものの、直江は高耶の傍に寄り、そっと俯く頭を仰のけた。 口元とこめかみに貼られた、真新しいガーゼと絆創膏が目に飛び込んできた。先程までは目立たなかった殴打の痕が今は青黒く変色してガーゼの縁から透けている。 その無惨さに息が詰まった。 高耶は泣いてはいなかった。 泣くことも出来ないほど心の奥が凍てついている……そんな眼の色をして、それでも彼特有の強い光が喪われていないことが、かえって痛々しかった。 こんなになってもまだこの少年は自分の足で立とうとするのだ。他人を頼ることを潔しとせずに。 まるで自らの痛みを堪えるかのように高耶の顔を暫く眺め、それでもあえて傷の具合を訊ねることはしなかった。 口に出してしまえば、彼を傷つけたものに対する憎しみが溢れ返って少年自身までも巻き込んでしまいそうだったから。 「……しばらくここにいてください。そう話をつけましたから」 高耶が黙って首を振る。 「明日帰る。……あいつ、自分の所有物には執着するんだ。ここにも押しかけてくるかもしれない。 美弥だけ頼めれば……。オレはあいつのそばで見張ってなくちゃ。ヘンなことしでかさないように」 「そして、あなたの傷がまた増えるの?あなたが傷つけられるのを指をくわえて黙ってみていろとでも? 冗談じゃない。大人を見くびるのもたいがいになさい」 怒気を含んだ声音に、初めて高耶が視線を合わせてくる。 「なおえ?」 「あなたもここにいるんです。美弥さんといっしょに……。後のことは皆でじっくり考え ますから。あなたはもう充分頑張ってきた。だから少しだけ肩の力を抜いてごらんなさい。和尚様や、奥様や、私のことを信用して」 きょとんとしたまま見上げてくる瞳に引き込まれるように手が伸びた。 傷ついた顔を掌で包み込む。 「……もっと早く手を打てばよかった。あなたがこんな目に遭う前に」 そのうめくような怨嗟の響きを高耶は呆然として聞いていた。 何故こんなに親身になれるのだろう?取るに足らないこんなこどもに。 厄介者でしかない自分たちにどうして手を差し伸べてくれるのだろう? そんなことをぼんやりと思う。 素直に愛されているのだと感じるには心が疲れすぎていたので。 それでも、頬に触れる温かな大きな手は気持ちがよかった。この寺を訪れて、直江を頼ったのは間違いではなかったのだと、そう思わせてくれる。 直江が不在の間ずっと一人で抱えていた不安が溶かされていくようだった。 「オレなら大丈夫だから」 ……もう口ぐせになってしまった言葉をもう一度口にする。 美弥を安心させるために、自分を奮い立たせるために、幾度となく繰り返した呪文。 今は心からそう思った。一人ぼっちとは違う。すぐ傍にこうして直江がいてくれるのだから。 そんな気持ちが伝わったのだろう。傍らの青年からぴりぴりとした剣呑な雰囲気が消えていく。 「もう、灯りを消しましょう。おやすみなさい」 「うん。おやすみなさい」 高耶はもぞもぞとセーターと靴下を脱ぎ、美弥の隣の温かな布団に潜り込んだ。 それを見届けてから、灯りを消そうと手を伸ばす。 「直江は?何処で寝るの?」 眩しそうに目を眇めながら顎まで布団を引き上げて高耶が訊いてくる。 年相応にもどったあどけない表情に、微笑みながら直江が応えた。 「隣にいますから。襖を開けるとすぐですよ」 そう言い置いて、部屋を暗闇に戻し、静かに障子戸を閉める。 胸のうちに再び湧き上がる激情に耐えながら。 必死に支えた努力も虚しく高耶の家庭は崩壊していた。 無邪気に家のことを話していた去年の夏はまだよかった。 いつしか高耶は口をつぐむことが多くなり、次第に寺への道草そのものが間遠になった。 時折、痣をこしらえているその様子を気に掛けて問い詰めても、高耶本人に否定されてはどうしようもない。 直江にできるのは、何かあったらいつでも頼ってきていいのだと繰り返し言い聞かせることだけだった。 そんなふうにしてまで高耶が守ろうとしていたものは、とうとう母親が家を出たことによって決定的にこわれていった。 それでも、妹とふたり息をひそめるようにして暮らしていたらしい。泥酔した父親の暴力が自分に降りかかっても。 高耶はまだ身を挺して家族を庇っていた。 その矛先が美弥に向けられるまで。 ふとしたことで激昂した父親の怒りが美弥に向けられて、ついに高耶は妹を連れ、家を飛び出してきたのだった。 直江は所用で留守にしていた。 逢魔刻の山門に、只ならない様子で寄り添いながら佇む二人を夫人が見つけ、遠慮して帰ろうとするのを無理矢理に引き止めていてくれたらしい。 暖かな部屋と食事に気が緩んだのか、疲れ果てていた美弥はそこで眠りこんでしまい、寒々しい来客用の座敷では心細いだろうと、 夫人はわざわざ直江の部屋に寝具を用意してくれた。少しでも幼い兄妹が気安いようにと。 夜になって出先から戻り、事情を知った直江は、血相をかえて再び飛び出していった。 高耶の顔には殴られた痕が歴然として残り、もうごまかすことは出来なかった。 部外者といえどもこのままでは捨て置けない。そんな夫妻の同意も得て、直江は一人、兄妹の父親に逢いに行ったのだ。 高耶たちを手許に引き取る。そのためなら、どんな手段も辞さない決意で。 |