事態が動き出すのにそう時間は掛からなかった。 まずは父親の再就職が決まった。 父親の知人が持ちかけたという降って湧いたようなその就職先は、長期の海外出張が条件だった。 小学生の兄妹だけをアパートには残せない。公的な施設に一時的にでも入所しなければならないところを、結局、 父親が帰国するまで直江の修行先でもある夫妻の寺で預かることとなった。 いつのまにか直江は彼らの遠縁の親戚ということになっており、父親からの委任状まで取り付けていて、 おおっぴらに保護者の地位を得ていたのだった。 すべては夜叉衆の力まで駆使して、有形無形の圧力を随所にかけた、その結果だった。 「おとうさん、行っちゃったね…」 駅までの見送りの帰り、ぽつんと美弥が口にする。 慌しい準備に明け暮れる数日間は気が紛れていたものが、急に心細くなったらしい。 「美弥たち、捨てられたんじゃないよね?」 その言葉が胸に刺さった。すぐに高耶が否定する。 「バカ、仕事だっていっただろ?こどもは連れて行けないぐらい遠い不便なところだって。 その代わり、きちんと手紙くれるって、とうさん、約束したじゃないか。 だからお利口にして待っていよう…なっ?」 泣き出しそうに俯く妹を高耶が懸命に慰めている。 そんな愁嘆場をミラーに映しながら、直江は黙々と車を走らせていた。 あんな男でも父親というだけでこんなにも慕われている……親を恋しがる美弥の気持ちが口惜しくもあり、切なくもあった。 家族を引き裂くような引導を渡したのは自分だが、後悔はしていない。むしろ、絶対に必要な措置だった。とりあえず暴力からは遠ざけた。 高耶たち兄妹がこれ以上身体的に傷つく心配はしなくていい。 それでも小さな美弥の不安をどうしたらなだめてやれるものか、すでに充分傷ついてしまったものをどうやって癒せるのか、手に余りそうな難問だった。 それをあっさり杞憂にしてしまったのが、他ならぬ住職夫人のとし子である。 すっかり萎縮してしまった美弥を、夫人はにこにことして出迎えて、用意した部屋へと案内してくれた。 とたんに飛び込んできた華やかな色彩に美弥が目を丸くする。 千代紙を貼った箱に溢れるように盛られていたのは、しなやかな手触りの絹の端切れでこしらえたお手玉だった。 「おばちゃんちのこどもたちが使ったものなんだけど……今時の子にはどうかしらねえ?美弥ちゃんさえよければ貰ってちょうだい」 「すごーいっ!きれい!…ほんとにいいの?貰っても?」 「もちろんよ。それからね、こんなものもあるんだけど……」 そう言いながら、おはじきや、ままごとセットやぬいぐるみを、手品のように次々と 取り出してみせる。 美弥の気持ちがほぐれて夫人と二人仲良く遊び始めるのに、そう長くは掛からなかった。 「ほんとうにいい子たちねえ。」 夫人が目を細めて云う。 初日にそんなことがあって以来、美弥はすっかり夫人に懐いてしまった。 団地で暮らしていた美弥にとって寺の広い敷地と様々なしきたりは目新しいことばかりで、暇さえあれば後を追いかけ、ちょこちょこと「お手伝い」をしてみたりする。 それがまた夫人にとってはかわいくて仕方がないらしい。いろいろと家事やお作法の手ほどきをして、気の置けない来客の応対の時など、しずしずと茶菓を運んで来る美弥を、『孫なのよ』と平然と紹介して煙に巻いたりしている。 高耶も折り目正しい態度は崩さないまま、とにかくよく雑用を手伝う。 早朝の勤行にもきちんと顔を出し、いつのまにか経文を諳んじてしまったらしい様子に、老住職が、このまま仏門にはいらないか?などと打診している。 「この子には仏様がついていらっしゃる」 と、真顔で云って。 これには当の高耶がきょとんとし、直江は苦笑いするしかなかったけれど。 血の繋がりこそないけれど、温かな愛情に包まれて暮らす日々。 直江にとっても夢のような『家族ごっこ』が続くうちに、瞬く間に月がかわり、高耶の卒業式が近づいていた。 その日、いつもより少し遅い時間に高耶は家を出た。 在校生が受付をしてくれるから、予め決められた時刻に教室に到着かなくちゃいけないんだと、ぽっかりと空いた朝の時間を手持ち無沙汰に過ごしながら。 一足遅れて夫人と直江も小学校に向った。 来賓として式典に招かれている夫人は、正装でこそないものの、くすんだ朱鷺色の鮫小紋に黒の紋付羽織を合わせた略礼装である。 一方の直江も、今日はきっちりとスーツを着こなしていた。 校門前で行き交う父兄たちが、好奇の眼差しを二人に向ける。どうみても小学生の保護者には見えない組み合わせに首を傾げてしまうらしい。 と、悠然と構えていた夫人が、くすくす笑いだした。 「なんだか若いツバメをはべらせている有閑マダムの気分だわ。義明さん、本当に盛装が映えるわねえ」 「奥さま」 「ほらっ、その口調なのよ。ますますそれらしいじゃありませんか」 苦笑まじりにたしなめても、逆にあっさりといなされてしまう。どうやらこの状況を十二分に愉しんでいるらしく、余裕の笑みで不躾な周囲の視線に応えている。 「あら、美弥ちゃんよ」 昇降口に現れた数人の子どもたちを目敏く見つけて夫人が言った。 式に出席する在校生代表の児童以外は早くに帰されるのだと聞いている。ちょうどその下校時刻にあたったらしい。 「美弥ちゃあん!」 袂を抑えながら夫人が手を振った。 名を呼ばれて一瞬美弥が立ちすくんだ。眩しそうに二人を見て、やがて駆け出してくる。 「びっくりしちゃった。おばちゃん、すごくきれい。直江さんも」 「うふふ…ありがと。ちょっとおばあちゃんだけどね。じゃ、お式にでてくるから。気をつけてお帰りなさいね」 「うん…」 美弥の返事は歯切れが悪い。 無理もない。大好きな高耶の卒業式に自分だけが立ち会えないのだ。理屈では解っていても仲間外れにされた気分なのだろう。 「一緒に出ましょうか?」 思わず口にした誘いに、美弥が撃たれたように直江を見上げた。 「かまいませんよね。この子は高耶さんのたった一人の家族なのだから」 「そうねえ」 夫人も頷いた。 「校長先生には私から話しておくから。大丈夫よ、美弥ちゃん。お兄ちゃんの卒業をしっかりお祝いしてあげなさい。義明さんもついているから平気よね」 「うんっ!」 受付を済ませ、保護者でごった返す控え室は素通りしてそのまま体育館へ向う。 やはり年若い直江と低学年の美弥の姿は相当に浮いてしまうらしく、機材の前で打ち合わせていた教師たちの訝しげな視線を浴びた。 悪びれもせず会釈だけをしてその脇をすり抜ける直江だったが、いつもとはまったく雰囲気の違う礼装姿の父兄や教師たちに、美弥はすっかり気後れしてしまったらしい。直江にしがみつくようにして手を握ってくる。 庇うようにその背中に手を置いて促しながら、最後列の席に陣取った。 ステージからは遠いが、必要以上には目立たないし背後でのひそひそ話も聞かずにすむからだ。 「…ほんとによかったのかな?」 それでも居心地が悪いらしく美弥が小さく問いかけてきた。 「静かにしていれば大丈夫。出来ますよね?」 「うん」 そう云って美弥は精一杯背筋を伸ばして、揃えた膝の上に両手を置いた。 |