コサージュ
―4―




梅雨の前触れか、ここ数日雨が続いている。
初めて迎える試験が近いこともあって、高耶は直江の部屋で英語のノートを広げていた。
書き取りにも飽きてしまって、ぼんやりと霧雨の降る外を見る。雨に濡れた雑木林の新緑の緑が滴るように鮮やかだった。
「あれ……なんていうんだろ?」
問わずがたりの呟きを聞きとがめて、直江は高耶の視線を辿った。
木下闇の暗がりを背景に、浮き出るように青白い花が咲いていた。
「……シャガですね。いや、ヒメシャガかな」
「?……ヘンな名前」
音の響きが可憐な外見に似合わないのを訝って、それきり高耶は黙り込む。
「それが?どうかしました?」
「うん……。もうあの林はずいぶん探検して知らないことなんてないって思っていたのに、あんなきれいな花が咲くなんて知らなかった……」
「梅雨時に咲く花ですからね。雨の降るときはさすがにここには来なかったでしょう?だから気づかなかったんですよ」
「うん……」
なぜか高耶は視線を伏せてしまう。
「こうやっていくつ大事なことを見落としていくんだろ?……今ごろ気づいたって遅いのに」
ぽつんと呟く言葉が胸に痛い。
「ひょっとして……お母さんにみせたかったの?」
こくりと高耶が頷いた。
声を出したら、そのまま涙も溢れそうだといわんばかりに。
「…かあさん、きれいな花大好きだったんだ」
知らずに口にした過去形が哀しかった。もう二度と親子四人には戻れない。高耶は肌身 で感じているのだ。
「もう、遅いけど。いっつも、オレそうなんだ。やんなっちゃうよな」
冗談めかして無理にでも笑おうとする。それが切なすぎて心にもない慰めを口にした。
「そんなことはありませんよ。花は来年また咲きます。再来年もその次も…。いつか、お母さんに見せてあげることがきっと来るから……それに美弥さんだっているでしょう」
ふっと高耶の顔が和らいだ。
「そうだな。呼んで来る」
美弥はおおはしゃぎだった。結局一番よく見える直江の部屋に陣取り、きれいだねえを連発しながら林の中の花を飽くことなく眺めている。
肌寒い一日で、いつかそのまま眠ってしまった美弥を直江がそっと毛布で包んでくれた。
しあわせそうな妹の寝顔を見ながら高耶が云う。
「……直江がお父さんだったらよかったのに」
さすがに年齢に無理がありすぎると思ったか、慌てたように付け足した。
「おとうさんじゃなくても、兄さんでもおじさんでも、血の繋がった本当の家族だったらよかったのに」
「本当にそう思う?」
そう云った直江の顔はいつものように微笑んではいなかった。恐ろしいほどに真剣な眼をしている。
「高耶さんが望みさえすれば。いつだってそうしてあげる。あなたを護って育てて傍にいて、決して一人になんかしない。淋しい思いもさせない。約束します…でも、そうするに はあなたは今のすべてを捨てなければいけない。……そんなこと出来ないでしょう?」
「美弥も?」
直江は無言だった。
「じゃ、できない」
そう告げるのは、直江の意には添わないと解ってはいるけれど。
直江についていけば、もう、絶対につらい思いはしなくていいのだと、そう確信もあるけれど。
美弥まで捨てる自分は考えられない。そうしたら、自分はもう自分でなくなってしまうから。
そんな気持ちを込めて真摯な思いで直江を見つめる。
「……それでいいんですよ。あなたには捨てられるはずがないのだから。家族にはなれないけれど、私は貴方の傍にいますから。これからも」
これまでも……あなたの一番大切なものにはなれなかったけど。

いつものように穏やかな微笑が浮ぶのを見て高耶がほっと息をついた。
薄暗くなった室内に、夕餉の香りが漂ってきた。


父親の帰国が決まったのは夏休み前だった。
電話を入れる時間も惜しかったのだろう。前触れなく寺を訪ねた父親は、山門の前で、遠目に半年ぶりの我が子の姿をただ見つめるだけだった。
「おとうさんっ!」
それに気づいた美弥が転がるように駆け出して、その腕に縋りつく。
そのまま、大泣きに泣き出してしまった娘を抱きしめながら、父親は、住職夫妻や直江に深々と一礼をした。
その視線が少し離れて立つ、高耶に向けられる。万感の思いを込めて。断罪を待つ咎人のように。
刻が止まったかのように、その場の誰も動けなかった。
俯いていた高耶が、やがて何かを吹っ切ったようにゆっくりと二人に近づいた。
そして――
「お帰りなさい……」
そうちいさく呟いたとき、父親の顔もまたみるみる歪み涙が溢れ出すのを、困ったような表情で見つめていた。

―――家族の再生がまた始まる。

それは、直江にとっても自らの再生を予感させる福音だった。




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夏のスケッチから続くお話、またここでいったん終了です
毎回読みきりのつもりなのに、また「ゆめのかよいぢ」へ続くんです…(ーー;)







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