会場内に低く流れていたクラシックのBGMがやんだ。 人々のざわめきも潮が引くように静まり返る。 会場は水を打ったような静寂に包まれ、卒業生入場のアナウンスが入った。 高らかなマーチとともに会場内はいっせいに拍手の音が鳴り響く。 卒業生たちが整然と行進してくる。 その中に高耶を認め、直江はその姿に釘付けになった。美弥も気持ちは同じらしく、手をぎゅっと握りしめて高耶の背中を追いかけていた。 粛々と式は進行していった。 卒業証書授与のために、卒業生の名前が読み上げられる。 ひとりひとりが決まった間隔で席を立ち、壇上に上がり、正面を向いて、自分の順番を待っている。 高耶の番が近づいた。ステージの下手で待機してまっすぐに正面を見据えている。 耳障りなざわめきが聞こえてきたのはそのときだった。 そこかしこでひそひそと耳打ちする様子が、この位置からだとはっきりとわかる。高耶たちの家庭の事情は予想外に流布しているものらしい。 思わず隣の美弥を窺った。が、その美弥は拳を両膝にそろえ、身を乗り出すようにして高耶を見つめている。 彼女は今、高耶だけしか眼中にないのだ。大好きなおにいちゃんの姿を一瞬たりとも見逃さないように、その一念しか頭になくて、周囲の雑音にはまったく気づいていないようだった。 高耶の名前を読み上げる担任教師の朗々とした声が響いた。 「五番。仰木高耶」 「はい」 気負うでなく張り上げるのでもない、静かな発声ながら、場内に染み渡るような返事と ともに高耶は壇上を進み、校長と向き直った。 背筋の伸びた見惚れるような一礼をし、授与される証書を押し頂いて再び深々と礼をする。 その一挙手一投足を、息を呑んで直江が見つめる。美弥とともに。 正面の階段を下りるときの、あたりを睥睨する高耶の視線。何事にも臆せず誰にも媚びることをせずに。 この姿を生涯忘れない。そう思った。 高耶が席に戻ったところで、ほうと美弥が息を吐いた。どうやら本人以上に緊張していたらしい。照れ臭そうに直江と顔を見合わせ、にこりと笑って何か言いかけ、慌てたように口をつぐむ。まだまだ式の途中であることを思い出したように。 祝辞、記念品贈呈と続き、在校生代表の送辞とそれに応える答辞になって、ようやく場が少々緩んできた。 代表で出席している五年生と卒業する六年生が全員参加するためだ。 しつらえられたひな壇の上に子どもたちが並ぶ僅かな時間を利用して、保護者席にも動きがあった。我が子の晴れ姿を記念に納めようと、あちこちでシャッター音がする。 「カメラ持ってくればよかったね」 袖を引いて小声で囁く美弥に、申し訳なさそうに直江が云った。 「……うっかり玄関の下駄箱に置いて来てしまったんです。…帰ったら皆で撮りましょう。今はしっかり目に焼き付けておいて。おにいさんの姿を」 嘘だった。 初めから撮る気はなかった。 ファインダーなど通さない。写し身の姿は当てに しない。 ただこの眼に映る、一瞬一瞬の高耶の姿を心の奥に焼き付けておく。 この場にいない高耶の両親には決して分け与えない。それがばかげた独占欲だとわかってはいても。 ほどなく送辞が始まった。 呼応して卒業生たちが答える。その中に語られる数々の思い出、感謝、惜別、希望。 その余韻を引きずるように、答辞が終わると同時に一同が起立し、校歌斉唱となる。 美弥の子どもらしいのびやかな歌声をすぐ傍で聞きながら、今、一緒に歌っているに違いない高耶の声を想った。 厳かに閉式の発声。そして、終礼。 美弥は一生懸命に手を叩きながら、退場する卒業生…高耶を見つめていた。 「疲れたでしょう?よくがんばりましたね」 ざわめきが戻ってきた体育館で、放心したようにまだ座ったままの美弥に直江が声をかけた。 「うん。かっこよかったね。おにいちゃん」 目をこすりながら美弥が言う。 「さあ、外でお兄さんを待ちましょうか。みんなで一緒に帰りましょう」 「うんっ」 穏やかな日和だった。 クラスメートたちとふざけながら出てきた高耶が、美弥たちを見つけて小さく合図をする。待ちかねたように美弥が高耶に駆け寄っていった。と、高耶が胸元に手をやって、美弥に何かを手渡した。 「みてみてっ!お兄ちゃんにこれもらっちゃった。宝物にするの」 たった今まで高耶の胸を飾っていた、名札に添えられていた野ばらのコサージュ。 「…もう、オレは要らないから」 友達から離れて、美弥とともにやってきた高耶がぶっきらぼうに云う。 もらった美弥が気づかなくても、高耶自身が口にしなくても、直江と夫人にはわかってしまった。 ……それは、卒業式にでてくれた妹へのささやかな感謝の気持ちなのだ。 「ほんとうにいい子たちねえ…」 夫人の呟きは、心なしか少し潤んで聴こえた。 春休みはあっという間だった。 真新しい学生服に袖を通した高耶は、また少し大人びて見える。 ……父親からも祝いの品が届いた。 美弥には花のブローチが、そして高耶には腕時計が。 高耶はそれを受け取りはしたが、とうとう身に付けることもなく引き出しにしまいこんでしまった。時々、その箱を取り出しては真剣な表情で見つめているのを直江は知っている。だが、それでも何も云わなかった。 一緒に添えられていた夫妻宛ての手紙には、遠く離れて一人になって初めて身に沁みた家族のありがたみや、子どもたちへの仕打ちの悔恨の思いが連綿と綴られていたことも。 大人気ないと詰られようと、あの父親に塩を送るような真似だけはまっぴら御免だった。 入学し新しい環境になって、四月、五月が過ぎていく。 高耶はとうとう部活動には入らなかった。学校が退けると早々に帰宅して、庭掃きや、廻廊の拭き掃除をする。これでは本当に修行僧見習だ。 「そんなにされたら私の仕事がなくなってしまいます」 見かねて直江が冗談まじりに云ったことがある。そこまでしなくてもいい。もっと自分のために時間を使ってほしい…そう仄めかしたつもりだったが、高耶の応えは違っていた。 「だって、オレ、体動かすの好きだし。ここ、とにかく広いだろ?それに……感謝されるのってなんかうれしいし」 ……自分の存在を認めてもらえるようで。 いやいやしているわけではない。役に立てることがうれしいのだと、穏やかなその表情が語っていた。 そういう意味ではずっと報われることがなかったのだと、そう思い至って胸を突かれた。 美弥もひとつ学年が上がって、新しく家庭科の授業が増えた。 実習はまだまだ先なのに、夫人に頼み込んでいろいろ教えてもらっている。その成果として、時々、食卓に、不揃いな千切りキャベツや、少々焦げた卵焼きが載ったりする。 「上手になっておとうさんに食べてもらうんだ」 何気なく美弥が口にしたとき、一緒に台所にいた夫人は不覚にも涙を零しそうになってしまって、慌てて玉葱のせいにした……と、そう周囲に漏らした。 「仰木さん、早くお帰りになるといいですね。こどもたちがあんなにがんばっているのだから」 「そうだな……」 高耶たちと暮らし始めてもう四ヶ月にもなる。 情が移らないはずはない。 それだけに、兄妹にとってどんな形で暮らすのが一番幸せなことなのかを、夫妻は真剣に考えている。 誰よりも高耶のことを思っていると自負する自分が、実は一番偏狭なのではないか…… そんな忸怩たる思いを抱いて、直江は夫妻の茶飲み話にだまって付き合っていた。 |