『おまえんちに行ってもいいか?』 前触れもなしに突然高耶から連絡がはいったのは、八月の第一週のことだった。 『もちろんですっ!』 即答はしたものの、実家に駆り出される盆を控えたこの時期は、不動産業の手伝いもそれなりに忙しい。 どうしても迎えに行く時間の割けないことを詫びる直江に、笑いを含んだ高耶の声が被さった。 『いいんだ。こっちも暑くてたまんねーから、クーラーあるとこで涼みたいだけ。 昼寝したいだけなんだから、オレのことは気にしないでしっかり仕事しろよ?留守番しながら晩飯か…夜食ぐらいは作っておくから。帰りは大体何時になる?』 『そうですねえ。八時か……遅くても九時までには。』 そう告げてはみたものの、愛しい人が独り家にいて自分を待っている。しかも手ずから夕餉を整えてくれている……この状況に奮い立たない男がどこにいよう? 馬車馬のごとくに猛然と一日のノルマをこなし、延ばせる仕事は総て先延ばしにして直江が帰宅したのは、だから、約束よりもずいぶんと早い刻限だった。 浮き立つ心を押さえてチャイムを鳴らす。 「……はい?」 応対に出た声は紛れもない高耶のもの。 「ただいま帰りました」 「……直江?」 怪訝そうな声音。 あとに続くのはドアチェーンを外す金属音。 勢いよく開け放たれたドアの向こうに、信じられないという刹那の表情を浮かべた高耶が佇んでいる。 見つめる直江の前で、すぐにそれは満面の笑みとなり、次の瞬間には照れ臭そうな仏頂面に戻ってしまったけれど。 「ただいま……いらっしゃい。高耶さん」 「おかえり。はやかったな…。すぐにメシ、用意するから」 そう云うなり高耶は身を翻してばたばたとキッチンに姿を消した。 感極まって抱きしめたそうにしている直江に、その隙さえも与えずに。 「すすきの穂がさ…もう一面に出てるんだ。萩も咲いてる。不思議なもんだな。まだこんなに暑いのに」 大鉢に盛った肉じゃがをつつきながら、高耶が訥々と口にする。 車窓からみた高原の風景や、休み中の日常や、そんな他愛もないことを。 (なんでオレ、こんなしょーもないことをこいつにしゃべってんのかな?) 昔から話すのは得意じゃなかった。今だってそれは変わっていない。 つまらなくないだろうか? 時々、ふっとそんな思いがよぎって直江の顔を窺うけれど、そのたびに直江はにこにこと微笑いながら続きを促すものだから、 つい、また、高耶だけが話しつづける羽目になる。 食事の合間に喋るのだからこれがなかなか忙しい。思いのほか時間がかかって、ようやく高耶が箸を置いた時には、すでに食べ終えていた直江が熱いお茶を用意してくれていた。 「サンキュ」 湯飲みを受け取って、ふたり、暫し無言で煎茶を啜る。 高めの温度で淹れられたそれは爽やかな香りとともに適度な苦味とほのかな甘味が気持ちよく溶け合っていて、口の中をさっぱりと洗い流していく。 「そういえば、美弥さんは?おかわりありませんか?」 ふと思いついたような問い掛けに、高耶の動きが一瞬止まった。 「……うん」 さりげない返事をして高耶はまた湯飲みを口元に運ぶ。 これ以上に話題を継がないのはお茶の風味を楽しんでいるせいだと、そう思わせるように目を伏せ、静謐さを湛えた表情で。 そんな高耶に、この日初めて違和感をだいた――。 「すこしは風がでてきたな…」 風呂上り、短パン一枚にタオルを引っ掛けた格好でふらりと高耶がベランダにでる。 生ぬるくはあるものの自然の空気の流れは湯上がりの肌には心地いいらしく、ビールを片手にそのままてすりにもたれて空を見上げた。 蒸し暑い夏の夜の大気はたっぷりと湿気を含んでいるようで、見上げる空も靄がかかったように霞んでしまっている。 「…ちぇっ、ダメだ。ろくに星もみえやしねえ」 そう言いながらも、なぜか高耶は遠く視線をとばしたままだった。 「高耶さん?」 ずるずるとしゃがみこんでしまった高耶の気配を察して、すかさず直江が声をかけた。 「どうしました?気分でも悪い?」 そばに寄る男に黙ってかぶりをふってみせる。それでもその場を動かない様子に、直江もまた、一緒になって傍らに屈みこんだ。 同じ目線の位置で高耶の見つめるものを探るように。 そんな直江にちらりと目をやった高耶は、すぐさまほの明るい空に視線を戻し、問わずがたりに小さく言った。 「知ってたか?今日は月遅れの七夕だ…」 「ああ、そういえば……」 「美弥……仙台に出かけてるんだ」 「……」 たったそれだけで、直江は鬱屈した高耶の心情がわかってしまった。 ここに来たそのわけも。先程の躊躇いも。 ……高耶の母の住む街で、この季節に盛大に催される七夕まつり。 招かれたのが美弥だけということはないだろう。 だが高耶は同行しなかった。いや、行けなかったのだ。たぶん。 母親にはもう何の含みも持っていない―― 以前、高耶はそう語った。だから、きちんと電話もするし、もののやり取りもすると。 それでも、仲良しの『家族ごっこ』を演じながら七夕見物をする気にはなれなかったにちがいない。 さやさやとそよぐ和紙の吹流しの下を睦まじくそぞろ歩く美弥たちの姿が目に浮かぶようだった。誰の目にもきっと絵に描いたようにしあわせな親子に映るだろう。 だが、そこに屈託なく混じるには、高耶の負った心傷はあまりにも深い。 「七夕だから……年に一度、離れ離れの恋人同士が逢う、そんなおまつりなんだからしょうがない。美弥には笑って行ってこいと言ってやれた。でも、ほんとは……」 必死で負の感情を抑えこんでいた。 嫉妬や羨望や憎悪や、何よりもそう感じてしまう自分自身への嫌悪を。 だから今夜は晴れてほしかった。 星の逢瀬をこの目で見て、せめてそれだけでも素直に祝福してやりたかった。 そうでもしないと、心根が何処までも堕ちていきそうだったから。 それっきり俯いてしまった高耶の肩に直江の手が伸びる。 その感触に高耶がほっと息をつく。 自分を見失いそうな時に、触れてくる温かな直江の手。なだめるように、癒すように、千の言葉より雄弁な……。 何よりも確かに繋ぎとめていてくれる、その存在。 こうして欲しくて自分はここにやってきたのだと素直に思える。 「オレってほんとに心が狭いよな」 自嘲るように呟いて真顔になると、まっすぐに直江を見つめた。 「ごめん。おまえのこと、ダシにした。行かない理由を美弥に問い詰められて、 ついおまえの名前をだしちまった……だから……こないわけには行かなかったんだ」 「それだけ?」 「?」 「ここにきた理由はそれだけですか?」 胸の裡を言い当てられたような気恥ずかしさに、つい、視線が泳いでしまった。 「言い訳の辻褄合わせだけじゃなくて……俺に逢いたかったのだと…そう自惚れさせてはくれないんですか?」 正攻法で迫る男に高耶の顔が真っ赤に染まる。 返事など待つまでもない様子に、直江はそのまま高耶を深く懐に囲いながら囁いた。 「嘘なんかじゃない。逃げたのでもない。年に一度の七夕の夜だから、あなたはここにいるんです。家族よりも俺を選んだその結果として。 ……そうでしょう?」 ――そうでしょう? ふわふわとした頭の中で、繰り返し再生される直江の声。 ――うん。そうだな……。 木霊のような甘い誘いにそれ以上の逡巡を放棄して、高耶は静かに瞳を閉じた。 |