大切な記念日は数々あれど、今日のこの日も特別な日だから―― 理由にもならない理由をつけてさっさと仕事を切り上げ直江が自宅に戻ったのは、日は落ちたけれどまだかろうじて人の影が判別できる、 そんな夕暮れ時だった。 エントランスにはいりかけたその瞬間、背後をよぎる気配にはっと振り返る。身間違えようもない、徐行しながら駐輪場へ向うバイクの後ろ姿は高耶のもの。 思わず頬が緩んだ。 一緒に暮らし始めてそろそろ一年になる。それでも、玄関先で鉢合わせなど、まだ数えるほどしかない。そんな偶然さえ嬉しくて、直江はそのまま駐輪場へと迎えに行く。 だがしかし。 「おかえりなさい」 そう声をかけられて振り向いた高耶は、まるで悪戯を見つかったこどものような顔をしていた。 「……ただいま。ずいぶん早かったんだな」 それが悪いといわんばかりの、ふてくされたようなため息混じりの声音。 「高耶さん?」 つれない物言いに傷ついた顔をする男を前に、やがて高耶は観念したように、それまで何かを隠すように前かがみでいた不自然な姿勢から身を起こす。 同時に防寒着の下からかさばった包みを引きずり出した。ほの暗い駐輪場の照明に浮かび上がるポップでカラフルなショッピングバック。 「高耶さん、それは……」 深い深いため息をついて困惑しきった声で高耶が言った。 「チョコ、もらっちまった……」 男である以上、今日のこの日に、義理でもいいからチョコをもらうのはやっぱり嬉しい。 「はい。仰木くん」 引継ぎ事務が一段落したお茶の時間に先輩たちから笑顔で手渡されたその時は、確かに嬉しかったのだ。そう、最初の五つ目ぐらいまでは。 職場が病院という関係から同僚に女性が多いのは当然で、みんながくれるチョコを、まあ、にこにこして受け取っていたのだ。 だが、一般の入院患者さんにまでチョコを手渡されるに至っては、正直笑顔も引きつってしまった。 いや、担当している患者さん本人からならまだいい。きっと日頃の仕事ぶりに対して感謝の意を表してくれたのだろうと納得することができる。 問題は、今日に限ってやけに多いような気のする見舞いの人たちまでもが、次々と自分にチョコを渡してくれることだった。おばさん、おばあさん、おねえさん、そして中には小さな女の子まで。 幸いなことに本命めいたものはなく、断りきれずに受け取ったプレゼントの中に気合の入った手編みのマフラーだの高価な小物だのがなかったことが救いではあったけれど。 ひとりひとりにとっては、お遊びに近い軽い気持ちなのだろうが、チリも積もれば山はできる。 「……で、その山がこれですか」 いつもよりはちょっぴり豪華な食卓を囲んでグラスを傾けながら、ようやくことの顛末を訊きだした直江が口をはさんだ。 視線の先には紙袋にふたつ分はあろうかというチョコが無造作に積んである。 普段に持ち歩くデイバッグには到底収まりきれない量で、仕方なしに高耶はカンガルーよろしくお腹に荷物を抱える不自由を強いられて家路にたどり着いたのだった。 そのへんてこな格好をよりにもよって一番見られたくなった直江に目撃されてしまったのが、先程の嘆息の真意らしい。 高耶のため息が移ったように、直江もまた深く深く息をつく。 「怒ったか?」 自分に向けられる男の独占欲をいやというほど思い知らされている高耶は、珈琲を差し出しながら、不安そうに直江の顔を窺う。 「……まさか」 意外にも穏やかな笑顔を返されて心臓が跳ね上がる。 「あなたは本当に皆に愛されているんですね。さすがは私の高耶さんだ」 「…そ・そんなんじゃねーよ。……でも、ヘンだよな」 直江の言葉にわたわたとうろたえていた高耶だったが、ふいに考え込む顔になった。 「学校の頃は自慢じゃないけど、ほんとにチョコなんか縁がなかったんだぜ?それが、なんで働き始めたとたんに、こうなるわけ?」 「……それだけ社会人にはお返しが期待できるってことじゃないですか?三倍返しが相場ですから」 「…!!!」 「……冗談ですよ」 見る間に青ざめた高耶の傍に回って、安心させるように抱きしめる。 理由なんて簡単だ。 自覚のない高耶には訝しく思えるその訳を直江は簡単に言い当てることができる。 高耶という青年が同年輩の少女たちには手の届かない孤高の存在だった。ただ、それだけのこと。同僚や知人としてのワンクッション置いた関係なら、イベント化した年中行事に紛れてちゃっかり手渡しもできるけれど。 そう、誰もお返しなんて期待していない。チョコに託した自分の好意に気づいてもらえるだけで満足なのだから。 義理だといいながら、渡されたチョコの中には到底義理では片付けられない高級ブランドの包みがあるのにも、とっくに直江は気づいていた。 でも所詮それはかなわぬ想い。顔も知らない高耶の知人たちに向ってほくそえむ。 高耶が愛しているのは自分で、そして、誰よりも高耶を愛しているのもまたこの自分なのだから。 頬を包んで柔らかくくちづけた。 「今から他人へのお返しの心配なんかしないで?それより先に今夜はすることがあるでしょう?」 「うん……」 釈然としない顔で、それでも高耶は素直にキスを受け入れる。 「明日、早番なんだ。オレ……」 「じゃあ、さっさと始めましょう。軽く、ぐっすり眠れる程度にね?」 ぐっすりは眠ることになるのだろうが、軽くというのは絶対嘘だ。 くすくすと笑いながら、それでもいいと高耶は思う。 欲しいのはたったひとり。目の前のこの男だけなのだから。 思いついたようにソーサーに載せていたトリュフをひとつつまんで、もう一度、キスをする。 「ギリなんかじゃないからな?」 「では私も」 同じキスを今度はボンボンで返される。 口移しで蕩けたチョコはほのかにブランデーの香りがした。 |