不意に目覚めた闇の中で、頭上高くに鳴く鳥の声を聞いた。天に突き抜け谺が返るような、そんな甲高い独特の声音を。 まだ夜の明けきらない暁闇の空を滑空しているのだろう、近付いてきたそれは瞬く間に上空を飛び去ったらしく、次第に小さくなっていく。 なんだっけ? 印象的なその響きを確かに自分は知っている気がして考える。 暫く頭をひねったあとで、ああ、不如帰だと思いあたった。 もう、そんな季節になったのかと不思議な気分でいるうちに、傍らで人の起き上がる気配がした。 「直江?」 あたたかい手が伸びてきて柔らかく髪を撫でる。 「まだ早いから、あなたは寝ていていいんですよ。もう一度おやすみなさい」 「……うん」 穏やかな語りかけが嬉しくて、素直に頷く。そして鼻先まで上掛けを引っ張りあげて顔をうずめた。 眼を閉じていても解る直江の微笑。 その貌が瞼に浮んで高耶は布地の下で同じように微笑み返す。 身仕舞いをする微かな衣擦れ、立ち上がる気配。 音もなく障子が開き、すぐに閉められて揺らぐわずかな空気の動き。そして廊下を渡る忍びやかなすり足の音。 そのすべてが遠ざかり、閨は再び静寂に包まれて、高耶はとろとろと眠りに落ちる。 あれ?オレ、なんで不如帰なんてしってんだろ? 夢の入り口でそんなことを考えながら。 理屈っぽく考えたところで、それは所詮夢の中のできごと。答のでるはずもなく。やがて日が昇り、ご飯ですよと起こされるまで、高耶は本当にぐっすりと眠りこんでしまっていたのだった。 夜明け前の夢の逡巡などきれいに忘れて。 「高耶さん…」 呼ばれた声にぱっと眼を開ければ、あたりはすっかり明るくなっていて、高耶は反射的に跳ね起きた。 しまった!寝過ごした!ご飯つくんなきゃ。 そう思った次の瞬間、雑務衣姿の直江が目に飛び込んでくる。 ああ、そうか…。オレ、またここに来ていたんだ…。 照れ臭そうに笑って、それでも高耶は口にした。 「おはよう…」 「おはようございます」 にこりと笑って直江は挨拶を返してくれる。 「朝ご飯出来てますよ。みなさんがお待ちです」 「いけねっ。三分、いや二分で行くから、先に行ってて!」 ばたばたとパジャマを剥ぎ、鴨居につるしてあった制服に手を伸ばす。 「顔洗うのだけは省かないでくださいね。布団はそのままで構いませんから」 「おう!」 両手でカッターシャツの釦をはめながら、同時に膝の振りだけで器用にズボンを放る様子にくすくす笑いながら、直江は部屋を後にする。 ほどなく茶の間に姿を見せた高耶は、先程の慌てようなどおくびにも見せずにすましこんで住職夫妻と言葉を交わして、 ますます直江の笑みを深くさせた。 なごやかな『家族ごっこ』がまた始まるのだ。 あれから一年になる。 父親の仕事は相変わらず家を空ける機会が多く、長期出張のたびに高耶たちはこの寺に世話になる。 住職の慈恒もその夫人であるとし子も孫のような高耶と美弥の来訪を心待ちにしていて、専用の部屋をわざわざ空けておいてくれるのだ。 はじめのうちこそ美弥と一緒に母屋で過ごしていた高耶だったが、いつのまにか直江の寝起きする離れに移ってしまった。勉強を見てもらうのに都合がいいという理由で。 それ以外に理由なんてないと高耶自身は信じているのだが、心の奥底にはいつも直江の近くにいたい…そんな思いがあることも、大人たちはちゃんと気づいている。 他人に対しては一歩引いて構える高耶が、唯一心を許しているらしい存在。 橘義明という青年を立ち直らせ再び生に眼を向けさせたのがこの高耶という少年なら、 少年の魂が絶望の淵に沈むのを救ったのが、義明なのだ。 まるで前世からの縁のように対をなすふたりが、歳の離れた兄弟のようにじゃれている様子はなんとも微笑ましいものだった。 ようやく高耶に訪れた平穏。 それは誰にとっても永遠に続くような気がしていたのに、現実はまた少しずつ形を変え始めていく。 少しずつではあるが、怨霊の動きが活性化してきている。各地に散った軒猿たちの報告は如実にその傾向を伝えている。 折しも東京では色部が病に臥した。束ねの役割は勢い直江が負わねばならず、いままでのように一地方での安閑とした隠棲を許さない状況になりつつある。 それでも、まだ直江は松本から動かなかった。動く決心がつかなかったのだ。 高耶にすべてを告げてしまえばいい。彼の出自も使命もなにもかも。記憶が甦れば今は封じられている力も戻るだろう。 彼を総大将に据えてしまえばあとは何の心配も要らない。夜叉衆と冥界上杉軍は往年の力を取り戻す。 そう思う一方で、別の感情が悲鳴をあげる。 二十数年前の経緯を暴露することは、今まで築いてきた高耶の無垢な信頼を自ら壊すことに他ならないと。 何ものにも換えがたく愛しい存在。 高耶に対する執着が決断を鈍らせ、その結果として抱え込む綱渡りに似た多忙な日程は、容赦なく平穏な日々を侵食していった。 |