ゆめのかよいぢ
―2―




直江の様子が最近おかしい。
高耶がそんな違和感を抱いたのは、今回初めて目の当たりにした、直江の外泊の多さだった。
寺に行きさえすれば直江に逢える。そんな暮らしはもう四年も続いていたから、それがすっかり日常になってしまっていて、 自分がここにいるのに直江だけがいない日々はなんとはなしに張りがなく、胸にぽっかり穴のあく思いがした。 もちろんそんなことは沽券にかけても口にはださなかったけれど。
直江の分まで雑事を引き受け忙しそうに動き回るその背中がサミシイツマラナイと訴えているのは、ここの大人たちにはお見通しのようだった。

「義明さんね、今、ご実家が大変みたいなの」
度重なる不在の理由を、そう夫人は高耶に説明してくれた。
「実家?」
きょとんと高耶が問い返す。
そのときまで考えもしなかった。直江にも家族はあるのだということを。
この寺は修行先という、言わば職場なのであって、帰るべき家庭は他にもあるのだということを。
そんな当たり前のことを失念するぐらい、高耶は、直江は常に傍らにいるものだと決め込んでいたのだ。まるで自分の所有、自分の家族だと言わんばかりに。
思いがけない直江に対する自分の感情にうろたえて、うしろめたそうに俯いてしまった高耶の心情をどう慮ったのか、さらに夫人は告げる。
「……ご家族がどうのというのじゃないのだけど。義明さんの恩師にあたる方が、今、向こうに入院されているのですって。 身寄りのない方らしくて…義明さん、まるで息子さんみたいに頼りにされているらしいの。 だから……」
出来る限りの時間を割いて、病人に付き添っているのだと言う。
いかにも彼らしいと、そんな口調で。
さもありなんと高耶だって思う。
直江は優しいから。頼りなげにしているものを振り払うことなどできないから。
そうするのが当然だと訳知りに思う一方で、自分だけが特別ではなかったのだと落胆し、地団太を踏む駄々っ子のような思いも確かに心の中に在ることに、突然高耶は気がついた。
相反するふたつの感情は十三でしかない子どもが飲み込むにはいささか重たすぎて。
高耶になら事情を打ち明けてもいいだろうという夫人の判断は、このときばかりは裏目にでたのかもしれない。
解ってあげてね、我慢してねと、諭すように柔らかな夫人のまなざしが、自分の狭量さを責めているようでとても痛かったから。
高耶は俯いたまま、無言で肯くのがやっとだった。




直江ってオレのなんなんだろ?

いまさらながらに湧き上がる疑問を、気がつけば、高耶はいつも頭の片隅で考えている。
学校帰りのの川べりの道を友達と別れてひとり歩きながら、境内の参道を箒で清めながら。 或いは、答案を書上げてしまって時間を持て余した小テストの最中、ぼんやりと教室の窓の外を眺めながら。

まだ小学生だった夏休み、するりと彼は高耶の傍に滑り込んできた。
思えばあの頃はもう高耶の家庭は壊れかけていて。家中に漂う重苦しい雰囲気に窒息しそうな日々が続いていた。
それでも、外に助けを求めるなど論外だった。親身に声を掛けてくる人たちがいなかったわけではないけれど。 その親切心から滲み出る優越感や好奇心を敏感に高耶は嗅ぎ取っていたから。
それはつまるところ、素直に人の情を受け入れられないほどに心が追い詰められ意固地になっていた事実にほかならなかったが、高耶自身は必死だった。 怯える妹をなだめ俯く母を慰め、一歩外に出れば何事もないように.振舞って、懸命に崩れそうな家族への幻想を支えていた。
他人と接するには――たとえそれが同級の友達でも――それなりの鎧が必要で、それがしんどくて、自然と一人でいることが多くなった。

直江だけが違っていた。
彼の傍でだけ、楽に呼吸がつけるようだった。
歳相応の子どもでいいのだと。甘えても拗ねても、むくれて見せてもいいのだと、理屈より先に本能が理解してその避難所に飛び込んだ。
子どもだからと侮らない。見下さない。他の大人たちには生意気でどうしようもないと眉を顰められている、勝気で強情な自分の性格も、彼に言わせると短所ではないようだった。
まっすぐで信念を曲げない、その力はとても素晴らしいことだからと。だから、使いどころを間違えないよう、もっと見聞をひろめて公平な判断が下せるようにおなりなさいと。
微笑みながらやんわりとうっちゃっていた宿題を促されて、結局は勉強させるのが目的かと、自分はじたばたと暴れてしまったけれど。でも本当は。
本当は誉められて涙の出るほど嬉しかったのだ。
そんなふうに素のままの自分を包み込む温かな存在のあることが。
自分には奇蹟のような救いだった。ずっと。
友達というニュアンスからはちょっと外れて、兄さんでも叔父さんでもないけれど、かけがえのないとても大切な人。自分に出来ることならなんでも叶えてあげたい人。
それが直江だから。
だったら彼の望む生き方を認めなければ。たとえそれで距離を置くようなことになっても。
誰に諭されるわけでもなく、いつしか高耶は自分自身でそんな結論にたどり着いていた。




雨上がりの黒々とした地面に点々とピンクの彩りが落ちている。
合歓の花だ。
ああ、もうそんな時季になったのだと、高耶は足を止めて頭上を見上げる。
天蓋のように枝を張り出し羽根のように広がった葉の付け根の所々に、さわさわと揺れる薄紅の花弁が見え隠れしている。

ようやく開き始めたばかりなのに……。
高耶は再び視線を下に戻すと、かがみこんで、風に折れた枝を拾い上げた。
さ緑のつぼみから瑞々しいピンクの花房へ。まだまだこれからが盛りのはずだった花は、幸いにも完全に萎れきってはいない。 小さな一輪挿しに生ける分には丈も充分間に合いそうな気がして、高耶は他にも助けられそうな枝がないかときょろきょろあたりを見渡す。 拾い集めた数本を水を張ったバケツに漬けて日の当たらない場所に置いた。
房飾りのような繊細なこの花に初めて気がついたのは去年のことだ。
夜になると眠るように葉を閉じるという珍しい木の名前だけは聞き知っていても、実物がこんなに身近にあるなんて思いもしなかった。 まさか、夏の間涼しい木陰を提供してくれる、駐車場脇のこの木がそうだったなんて。
遠目にもピンクに染まった花盛りの木に先に美弥が気づき、とし子にその名を教えられて、ようやく高耶も知識と実物が一致したのだった。

  ずっとそこに在るのが当たり前の木だった。
その傘のような枝のつくる木陰で涼んだり、通り雨をやり過ごしたり。
すべてをその羽根の下に包みこむ親鳥のような優しさはただそこに存在するもの。
風雅な名前や咲かせる花の美しい外見とはかかわりのないところで。

直江のようだ。
ふとそんなことを思った。
地鳴りのような唸りをあげて、突風が枝を揺らしていく。
その音に思わず首を竦めて見上げた葉先の向こうには、眩しいほどの青空が透けてみえた。
今年初めて本州に上陸し一晩で駆け抜けていった台風は、夥しい雨を降らせて各地に被害をもたらしたものの、停滞していた梅雨の雲も吹き払ってくれたらしい。
久し振りに見る青空は清々しく、どこまでも青い。
吹き返しの強い風は早くも熱気をはらんでいて今日一日の上天気を約束している。 台風の置き土産……ちぎれた枝葉や、飛沫のかかった外回りを掃除するには絶好の日和になりそうだった。
ぼうと空を見上げ、花を眺める間にも、熱い風に晒された石畳のあたりはどんどん路面が乾いてきている。
物思いから我に返り、気を取り直すように高耶は握る箒の柄に力を込め、本分の掃き掃除へと取り掛かった。濡れてへばりついていた葉も水気を失い、箒の穂先が面白いように病葉をすくい取る。高耶は無心に箒を動かし続け山門から本堂への参道を踏破した頃、不意に自分を呼ぶ声に顔をあげる。
山門に今しがたまで考えていた男の姿があった。
いつもと変わらず穏やかに笑って佇む直江に、思わず、駆け寄った。

「お帰りなさい。……その大変だったな」
いつもの上京と見舞い。夕べ遅くに帰宅するはずが、暴風雨による交通網の寸断で足止めを食っていたのだ。
無事ではいるけど何時戻れるかは見通しが立たないと、そう聞かされていたのにこんなに朝早くに到着するなんて。夕べは一睡もしていないのじゃないだろうか。
「ええ、酷い目に遇いました。こちらは?何事もなく?」
ろくに寝ていないだろうに、直江の顔にはさほど憔悴した色はなく、それが高耶をほっとさせる。 そのとたん、急にじっと見つめていたことが気恥ずかしくなって、高耶は慌てて身を翻した。
「うん。見てのとおり、ちょっと掃除が必要なだけ……オレ和尚さまに知らせてくる。みんなすごく心配してたんだから」
手にした箒を放り出してぱたぱたと庫裏屋へ駆け出す後ろ姿を、今度は直江が厳しい貌で凝視していた。

ここ一年で高耶はずいぶんと身長が伸びた。
伸びやかに健やかに……そんな面映い言葉が衒いなく浮ぶほど、かれはまっすぐに成長している。これが彼本来の姿なのだとしたら、もう何も心配することはないのかもしれない。彼には……彼を縛る記憶など要らないのかもしれない。
今更、修羅の道に引き戻す必要などない。
自分さえ、すべて飲み込んでしまえば。彼への執着を飲み下してさえしまえれば。夜叉を率いた上杉景虎としての魂はもういないのだと、自分も周囲をも信じこみさえすれば。
彼は、自由に未来へとはばたくことができる。

出来るのだろうか。自分に。つい本心が告げる弱音を叱咤する。
できるのではなく、為さなければならないのだと。

周囲に暗示をかけ病院の色部と口裏を合わせ、ぎりぎりの日程で各地を駆け回る怨将調伏は、もう限界に来ていた。このままでいたら、きっとどこかに綻びが生ずる。 最も望まない形で高耶を巻き込むことにもなりかねない。
そうなる前に選び取らねばならなかった。
去るか、告げるか。
どちらにしてもこの手から高耶を失ってしまういずれかの道を。




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高耶さんて高耶さんて……
どんだけ直江のことが好きなんだろ?
というか直江は高耶さんに愛されてなんぼだなあ。と、
改めて自分の嗜好を認識したり(苦笑)






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