伴われて訪ねた病室はホテルのように洗練されたこぎれいな個室だった。 ノックをし、応えのままにドアを開ければ、初老の男性がベッドに上体を起こしている。やつれた感じはあるののいかにも病み衰えたという感じではなくて、高耶は少しほっとする。 訝しげに見つめられて、軽く会釈をした。だからその瞬間相手の顔に浮んだ激しい驚愕の色に高耶は気がつかなかった。ただ食い入るように見つめてくる視線が、ちょっと気まずかっただけだ。 やっぱり場違いだったのかもしれない。そんなふうに後悔しかけた時、冴子がすましてお定まりの口上を口にした。 「ご無沙汰しております。義明の姉の村上でございます。…今日は突然にお伺いしてしまいまして…」 「え、あ、いや、失礼しました。冴子さん。病人には見舞いほど嬉しいものはないですよ。 ただこんな大きなお子さんがいらっしゃったのかと驚いてしまって…こちらはご子息ですか?」 冴子がにっこりと微笑んだ。 「それならば嬉しいのですけど。紹介しますわ。仰木高耶くん。義明の…松本でのゆかりのある子で。……その、実は、彼が、一度佐々木さんにお目にかかりたいというもので。 私はただの付き添いなんです」 背中を押されるように、高耶がぴょこんと頭を下げる。 「こんにちは。仰木…高耶です」 佐々木の目尻が柔和に緩んだ。 「これはご丁寧に。佐々木といいます。…こんな年寄りをわざわざ見舞ってくれてありがとう」 あれ? その笑顔に不意に既視感がよぎった。明け方に聴く不如帰の声と同じだ。意識の深いところで感じる不思議な懐かしさ。そして共感。直江とも繋がる――何か。 考え込む高耶の様子をはにかんでいると取ったのか、世間話のようなやり取りはもっぱら冴子が引き受けてくれた。が、頃合を見て彼女が席を外してしまうと、その会話も途切れてしまう。 何を切り出すでもなく沈黙を持て余しているような高耶の様子をしばらく窺っていた佐々木は、何かを諦めたようにひとつ息をつくとさりげなく会話をリードする。 「……義明君とはいつから?」 訊かれて慌てて居ずまいを正した。口調も態度も柔らかいけれど、まるで先生に質問されているみたいだ。 「ええと、四年前からです。……その頃ちょっとごたついていて。直江…じゃなくて義明さんにはずいぶん親身になってもらって。それで……」 頭の中で一生懸命組み立てて説明していたのに、話の腰を突然折られた。 「直江と呼んでいるのかね?」 「はい…」 「そうか……」 やっぱりまずかったろうか?親しげに『直江』と口を滑らせたのは。目を見開いた佐々木の反応に、内心冷やりとする。が、すぐに佐々木は衝撃から立ち直ったように穏やかに聞いてきた。 「その名で呼ばせる理由を彼はなんて?……どうして『橘義明』じゃないのか不思議じゃなかったかい?」 高耶は困ったように首を傾げる。 「一番最初に逢った時にこっちを名乗ったんです。直江…信綱って。本当の名前は後から知ったんだけど、こっちの方が言いやすくて、オレ、気がついたら直江直江ってすごく気安く呼びかけてて。ホントはすごい年上の人に失礼なのかもしれないけど……」 云いながら首を竦める。その仕種がいかにも悪戯小僧のようだ。 「もうすっかり馴染んでしまったわけだ」 「はい。直……義明さんもそれでいいって言ってくれたから。あ、もちろん人前ではかっこつけるようにはしてるんだけど」 これがなかなか難しくて…と、照れたように高耶が頭をかく。 春の芽吹きのようなのびやかさで無心に笑う少年の貌を、佐々木――色部は魅入られたように見つめていた。 間違いなく景虎本人であるはずなのに、彼の纏っていた刃のような鋭さはすっかり影を潜めている。ここにいるのは景虎以前、数奇な運命に揉まれる前のまっさらな魂だ。 これだったのか。直江が守り通していたものは。 四年前、唐突に居住を移した理由をようやく色部は飲み込んでいた。 二十数年のあの絶望の末に、ようやくその掌に取り戻した宝珠――「彼」を懐に隠して、その事実を誰にも告げず、何食わぬ顔で任務を遂行していたのだ。あの男は。 裏切りと詰るべきかもしれない。 総大将を見出しながらその存在を秘匿し、本来なら景虎に帰すべき指揮権を行使し続けた。そんな専横は、誰より景虎自身が許さない。 だが更なる不興を買うと承知の上で、直江は、「彼」を慈しみ守り育てることを選んだのだ。他ならぬ景虎に、せめてひととき、叶わなかった夢の時間を与えるために。 「あの……」 高耶がこわごわと掛けた声に色部はっと我に返る。 「ああ、失敬。君を見ていたらちょっと昔を思い出してしまって……」 「それって義明さんのことですか?」 勘のよさには敵わない。 「どうしてそう思うのかね?」 苦笑を隠して問い返すと、高耶は困ったように眉を寄せた。 「前に聞いたことがあるんです。佐々木さんは義明さんの恩人なんだって。あんな大人の人が? って今でも信じられないんだけど、義明さんも子供の頃にいろいろあって……そのときに佐々木さんが助けてくれたんだって。……だから、義明さんオレのことも放っとけなくて力になってくれたのかな?なんて……」 「おやおや、それはまたずいぶんと買いかぶってくれたものだ」 佐々木が呆れたような声をだす。辻褄合わせの方便とはいえ、ここまで持上げられたのではむずがゆくて仕方がない。 「違うんですか?」 「違うね。私はただ時機を待つよう諭しただけだから。本当に彼を救ったのは君なんだよ。高耶くん」 一瞬、高耶の目が丸くなる。言われたことを解しかねたように。やがて、頬がうっすらと紅潮し、それを隠すように俯いてしまう。口元を引き結び一心に考えている。 反駁と首肯、心の裡でどちらがより重いか秤に掛けているのだ。咄嗟の否定に走らなかったところを見れば、彼の中にもそれなりの自負は育っているのだろうか。 高耶の表情から、その内面の動きまで手にとるように解ってしまう。こんな彼では確かに目は離せまい。本当になんて綺麗なのだろう。直江が身を挺して護ろうとしている魂は。 「信じられないかい?」 柔らかい促しに救われたように、高耶が視線を上げた。 「だって……オレは何時だって直江に構ってもらうばかりで、ただの子どもで、直江の力になんかなんにもなってないと思ってたんです。でも……」 小首をかしげて言いよどんだその言葉に、光明が見える気がした。やはり彼も感じているのだ。力強く頷くことで色部はその細い光の糸を捉える。 「ねえ、高耶くん。ひとつ、この年寄りの言うことを信じてみてくれないか。 一人の人間の存在が、別の人間にとっての生きる理由になることが、確かに世の中にはあるんだよ。君が思う以上に直江は君のことを思っている。この先どんなことになっても。君のことだけを思っている。 それだけは、どうか信じてやってくれ。彼には君より大切なものなどないのだから……」 「…………」 真摯な表情で見つめる佐々木を、高耶もまた見つめ返す。その台詞はずいぶん大袈裟で芝居がかって聞えたけれど。 でも、この人は本当に直江のことが心配なのだと、まだ自分の知らない直江の何かを案じているのだと、それだけは痛いほどに伝わってくる。ここで頷いてみせれば、この人は心が安らぐのだろうか。いずれ迎える最期の刻に向けて重荷を減らすことになるのだろうか…? そうしてあげればいいと思いながらも、心のどこかで躊躇いがあった。 直江を信じる。それはとても容易いことだ。誰に言われるまでもなく、今の自分はそうしているけれど。 佐々木の言いたいことは本当に言葉通りの意味なのだろうか…? 応えはとうとう返せなかった。 冴子が長い中座から戻ってきたのだ。高耶と色部は申し合わせたように口を噤む。 あまり疲れさせてはいけないという配慮なのだろう。無言の冴子の促しを察して高耶が腰を上げた。その瞳に、最後までもの問いたげな色を残して。 その姿を焼き付けようとするように、色部もまた、ふたりの去った扉をいつまでも見続けていた。 その夜。 消灯後、病室にはもう一人の来客があった。 「……彼に逢ったよ」 音もなく忍び入り、灯りの届かない暗がりに佇む影に、一言、簡潔に告げた。 「…………」 「見舞いに来てくれた。今夜は橘の家に戻って明日松本へ帰るそうだ……」 「……そうですか」 返事が返るまでは暫しの間があった。が、落ち着いたその口調に男の覚悟の程を知る。 「おまえのことを恋しがっていた。いいのか?逢ってやらなくて?」 直江は黙ってかぶりを振る。 「予断を許さない状況なので。明日、晴家と共にもう一度現地に向かいます」 「そうか……」 「私への糾弾と処遇は、その件が片付いてからにしていただけると助かります」 「それは私の役目じゃない。知っているだろう。それが出来るのは彼だけだ」 淡々と他人事のように述べる直江に、今度は色部が首を振る。 「……ひとり離しておくのはかえって危険ではないのか?彼に自覚はなくても、彼に気づく怨将が皆無とは言い切れない。不穏な動きはあるかもしれん」 「万一の備えは残してあります。それにあのひとの寄宿先は徳を積んだ御仁がいらっしゃいますから…滅多な輩は近寄ることも出来ないでしょう」 「なにもかも織り込み済みというわけか。食えない男だ。あいかわらず」 「四年も身内を謀っていた男を前に、平然と善後策を講じているあなたの方がよっぽど食えないですよ。色部さん」 軽口めいた応酬に、ふっと色部の顔が緩む。 「昼間の景虎殿は…ごく普通の少年だった。軋轢から解放されて、今まで見たこともない顔をして笑っていた。おまえの判断は正しかった…と私は思う。彼には休息が必要だったのかもしれん。束の間だけでも」 暗にこの平安が長くはないことを匂わせる発言に、直江が真顔になった。 「私の手に余る事態になったら…そのときは彼に告げます。洗いざらいの経緯を」 「恐ろしくはないのか?」 「恐ろしいですよ。とても」 でも、それしかない…直江は薄く笑う。 もう死ぬことはできないのだから。力及ばない時はどんなに侮蔑されても彼に縋るしかないのだと。 「そうならないように祈っているんです…。願わくば彼がこのまま生を全うすることを。でもそれはあのひとのためなんかじゃない。あのひとであってあのひとでない仰木高耶という少年の心を私が独占するためです。 彼と過ごした年月がただ優しく美しいものに彩られていたら。その心の中に慈愛の存在として私が棲んでいられるのなら、もうそれ以上は望まない。実際、この目論見は上手くいっているでしょう?距離を置いたことで、私の存在はますます彼の心に焼き付いたはずだ。そうじゃないですか?」 何処までも続きそうな露悪的な独白を、色部は深い溜息で遮った。 「……腹を括っているのならそれでいい。おまえが彼という切り札を所持しているのなら安泰だ。いつぞやの言葉どおり私は遠慮なく休ませてもらうよ」 深々と枕に身体を預け、目を閉じて、もう会見は終わりだと態度で示す。 その意図を察しないはずはないのに、直江はまだ留まっている。 「……晴家には……」 「解っている。あれが知ったら、きっと彼のもとにすっ飛んでいくに決まっているからな。彼女にはなにも言わない。私からの漏洩はないと信じてくれていい。そして、これで私も同罪だ。いざとなったら、私も共に責めを負おう。彼とて、夜叉衆ふたりを同時に追放はできんだろう。 晴家からの罵詈雑言は避けられんが」 笑みさえ浮かべる懐の深さに感服して、直江は深々と一礼をし、病室を後にした。 翌日。 とうとう直江と顔を逢わすことなく高耶は松本へ戻り、直江は調伏のため西に向かう。 故意か偶然か、そのまますれ違い続けたふたりの道が再び交差するのは、高耶、高二の春のことになる。 終 |