高耶の鬱屈は、ほどなく周囲の知るところとなった。 変わりなく振舞っているつもりなのは本人だけで、その瞳に覇気がないのは高耶をよく知る人たちには隠しようがなく、 そしてその不元気の原因が、直江との別れのせいだと思い込むのもまた、無理のない話だった。 「やっぱり高耶おかしいよ。一度直江さんに会いに行けば?」 そんな友人の檄にも高耶は曖昧に微笑み、かぶりを振るだけだった。 逢いたくないわけじゃない。一目でいいから逢って声を聴きたい。でも、今の高耶にそうするだけの勇気はない。 日が経つにつれて、夢の衝撃は和らいだ。あれは男の生理だと無理やり割り切りもした。おかげで、普段の生活の中でならこうして直江の名が出てきても平静を装うことができる。 それでも、いざ本人を目の前にしたら? そんな真似をしたらどうなるかわからない。怖いのだ。隠すはずのこの思いをあの男には見抜かれそうで。いつも優しかった自分を見つめるまなざしに困惑の色が浮ぶのだけは見たくない。 そんな思いをするぐらいなら、顔なんてあわせない方がいい。 このまま気持ちを押し殺して日々を積み重ねていけば、いつか、その重さに慣れて楽になるかもしれないから。 不健全な方向に煮詰まって自己完結してしまう高耶の様子に、友人――譲――もまた天を仰いで嘆息する。彼を襲った塞ぎの虫はどうにも不可解だと、匙を投げる思いで。 しかし。伏兵はもうひとり、高耶のもっとも身近なところにいた。 空虚なまま誕生日を迎えて十四になったその週の金曜日。 高耶の前に風呂敷包みと切符を差し出して、それはそれはにこやかにとし子が告げたのだ。 「高耶くん。悪いけど、宇都宮の橘さんのお宅までお使いを頼まれてくれないかしら?」 義明さんには言葉に尽くせないほどお世話になったし。 あちらのご家族も常々高耶くんに会いたいとおっしゃっていたし。 それからね。週末の乗り放題切符、中高生には特にお得なのよ?これを利用しないテはないわっ! 美弥ちゃんはキャンプだし、高耶くんだってせっかくの夏休みですもの、ついでに一泊ぐらいして観光でもさせていただきなさいな。 理論武装した海千山千のツワモノに、笑顔のままきっぱりと押し切られては、対抗の余地はない。内心恐々としながらも、高耶は神妙に頭を下げ、中元の包みを押し頂いたのだった。 駅まで迎えにきてくださるそうだから。 その言葉に間違いなく、改札を出るなり声をかけられた。吃驚して振り向いた。無意識に身構えていた直江ではなく、彼よりもだいぶ年上の男性だ。きびきびとした態度でその人は橘の姓を名乗って高耶の来訪を歓迎してくれた。 ほっとしたような、ちょっとがっかりしたような、そんな気持ちで挨拶を交わすと促されるままに車に乗り込んだ。 「…迎えが義明じゃなくてがっかりしたかい?」 ベンツの後部座席でしゃちほこばる高耶に照弘は気さくに声をかける。 「いえ、そんなことは……」 直江にこれから逢うからだけじゃない。こんなに緊張しているのは、自分にはえらく不釣合いなこの重厚なシートのせいだと、高耶は思う。ひょっとして、自分はものすごく場違いな処へ赴くのではないのだろうか?そんな疑念が頭から離れないのだ。 もしかしなくても……、直江んちって、すっげー金持ちだったのか? 今更ながらに心臓がバクバクしてくる。そんな高耶の心中を知ってか知らずか、照弘はさらりと言った。 「あれには急な用事が入ってね、どうしてもこの週末は戻れないと連絡があったんだ。でも大丈夫。義明が帰るまでうちでゆっくりしているといい。きっと退屈する暇なんかないと思うよ」 もちろん、君さえよければだけどと、ミラー越しに笑いかけられて高耶も引きつった笑みを浮かべる。 ああよかった。と、とりあえず気まずい再会が避けられたことにほっとしたのも束の間、到着したとたんに熱狂的な出迎えを受けて、高耶は照弘の言葉の意味を身をもって知ることとなったのだった。 直江に面差しのよく似た上品そうなお母さん。 たまたま帰省していたという一番上のお姉さん。 同じ敷地内に住むという直江の義姉である照弘の奥さん。 そして直江の甥姪にあたる就学前の子どもたちが三人。 懐いた子供らにまとわりつかれ、女性陣には猫かわいがりされて、一泊だけの予定はずるずるとなし崩しに延びてしまった。当然、後一日は使えた週末切符も反古になる。 が、手回しよく用意されていた着替えの類から考えると、そもそも初めから高耶の処遇について両家の間で示し合わせていたらしい。 うまく嵌められた気がするが、すぐにそんなことはどうでもよくなった。 子どもたちと転げまわって遊ぶのは高耶にとっては絶好の気晴らしで、彼本来の笑顔を取り戻していったから。 「ごめんなさいね。高耶くんにはすっかりシッターさせてしまって。こんなつもりじゃなかったのに…」 リビングでぽつねんとテレビを見ていた高耶に、子ども部屋から戻った冴子が言った。 「いえ、オレもすごく楽しかったから。遊園地なんて久しぶりで…」 結局今日はせがまれるままに都内の遊園地に出掛け、夜になるまで引率した揚げ句に、そのまま冴子の自宅に一泊することになってしまった高耶である。 はしゃぎすぎた子どもたちはあっけないほど簡単に寝付いてしまったようで、おかげで、久しぶりにぽっかりと空いた静かな時間を持て余している。 常に賑やかだった橘の家での喧噪を思えばまるで夢のようだった。 いや、そうじゃなくて、と高耶は思う。 夢中になって遊んだこの数日こそが夢のような宝物なのかもしれない。 自分を好きだと全身で訴えてくる子どもたちがただただ愛しくて、可愛くて。子どもたちの無心な気持ちが、高耶の眼をも自らの内面に向けさせた。 一度、冷静に距離を置いて眺めれば、この一月鬱々と悩んだこと自体が、滑稽に思えてくる。 あの夜の夢は――今思い返しても火を噴くほどに恥ずかしいけれど――、それでも、決して邪なものではなく、無理して押さえつけていた寂しさの裏返しだったような気がする。 どこまでも平気なふりをする表の自分にもう一人の自分、直江に見守られ育まれた精神がきっと悲鳴をあげたのだ。 こんなにも彼を好きでいる事実をどうか忘れないでいてほしいと。 好きでたまらないから、傍にいなければ寂しいし、逢えたらきっと飛びつきたいほどに嬉しい。素直な気持ちは、心からの思いだからこそ、受け止める側にもきちんと伝わる。 それは高耶自身が子どもたちに教えられたことだから。自分もこのままでいいのだ。直江はいつものように穏やかに笑いかけてくれるだろう。 早く逢いたい。そう思った。 「お茶のお代わり淹れましょうか?」 そう声を掛けられて初めて手にした湯呑みが空になっていることに気がついた。 「えっ?ああ、はい…」 視線を上げれば、差し向かいに座る冴子がいる。ひとり物思いに耽っていたのに気を悪くするでもなくその沈黙に付き合ってくれていたらしい。 人見知りの激しい自分が、すぐ側にいる他人を忘れてそんな真似をしていたことに、高耶は少なからず驚いた。 「どうぞ」 優雅な仕種で差し出されて、静かに微笑む姿に納得する。この女性はその気になればいくらでも気配を消すことができるのだ。その物腰は直江の持つ穏やかさとよく似ていて、そんなふうに自然に感じ取れたことがうれしくて微笑んだ。 「ありがとうございます…」 お茶を飲み、菓子鉢に盛られたビスケットに手を伸ばす。ようやく寛いだ様子を見せる高耶に、冴子は言いにくそうに口を開いた。 「義明のことなんだけど…」 「はい?」 「義明、まだしばらく帰れないってさっき実家に連絡があったそうなの。散々待たせて、子どもたちの相手までしてもらったのに。ごめんなさいね」 「そうですか……」 かじりかけのビスケットから、急に味がなくなった気がした。 でも、心底申し訳なさそうに頭を下げるこの女性をこれ以上困らせたくなくて、高耶は急いで口の中の菓子を飲み込む。 「いいんです。もともとオレ届け物で来ただけだし。…義明さんの都合もきかなかったんだし。それなのに、図々しくこんなにお世話になっちゃって。……でも、楽しかったです。すごく」 たとえ本人には逢えなくても、こうして直江に近しい人たちに親切にしてもらって。子どもたちと遊んで。逆に彼らからいっぱい言葉にできないものをもらった。 もしも。 自分が遊びながら感じた純粋な喜びと同じものを、昔、直江も感じていたとしたら。 世話になるばかりだと思っていたけれど、本当は、それだけではなくて自分も直江に何かを返せていたとしたら。 だとしたら、負い目だけではなく、少しは自分を誇ってもいいのだ。 そう思えるから。 だから、きてよかった。この人たちに逢えてよかった。心からそう思った。 高耶の心情は冴子にも伝わったらしい。 直江とよく似た面差しが晴れやかに笑って華やかさを増す。 「本当に高耶くんっていい子だわね…」 もっと小さかったら、ぎゅっと抱きしめて頭を撫でたいくらいだけど。 そう言われて、高耶が慌てて首を振る。 中学生にそれは勘弁してほしい……。 とたんに赤くなる顔をなおもいとおしそうに見つめながら、冴子が言った。 「もちろん義明には後でそちらに伺わせるつもりだけど。高耶くんさえよかったらもっといてくれて構わないのよ?何処か行きたいとことかない?」 訊かれて、少し迷った。その逡巡を冴子は見逃さない。 重ねて問われて、病院と、正直に口にした。 逢ってみたかったのだ。直江と離れるきっかけとなった人に。彼を取り巻く人々がこんなにも暖かいのを知った今、その人だって、そうに決まってると確信めいたものがあって。一度だけでも、言葉を交わしてみたかった。もう、こんなチャンスは二度とないから。 躊躇いながらようやく願いを口にした高耶を、冴子は微笑むことで承諾してくれた。 |