まっすぐに自分を見つめている鳶色の瞳に、高耶は釘付けになる。 あやすように、いとしむように、春の光で凍えた心を包みこむような、そんな視線にデジャブを感じて。 直江とよく似た面差し。穏やかな仕種。やわらかな微笑。 これは、昔、確かに自分が直江から受け取っていたものと同じもの。 この女性は本当に弟のことが心配で、それと同じぐらい自分の身を案じていてくれるのだ。 「あ…」 突然、言いようのない感情が一気に胸にこみあげて、高耶は言葉をなくす。 目の前にいる冴子の暖かさに。そして暖かければ暖かいだけ湧き上がる慙愧の念に。 このひとは、本当に血を分けた直江の姉なのだと、改めてそう思う。こうして親身にその身を案じる家族がいる。 それでいながら、彼はまったくの異分子なのだ。 まざまざと換生という行為の残酷さを思い知った気がした。 乗っ取られた側だけでない、乗っ取る側の、他人の生に成り代わるその罪悪感と孤独とを。 どこか、まだ他人事のように考えていた。記憶のないのをいいことに。 本来の「仰木高耶」は別にいたのだとそう頭では理解していても、美弥を守り続けてきた「兄」は、紛れもなく自分なのだという矜持があったから。 それに縋って目を背けていられた。 でも彼は違う。 物心ついた頃から、すでにその換生という現実と闘わねばならなかったのだ。 優しくまわたでくるまれればくるまれるだけ、彼はどんな思いで過ごしていたのだろう。 考えるにつれておのずと導かれる答えがある。 直江が何も告げずに離れたもうひとつの意味を。 ひょっとして、今みたいな思いをさせたくなかったから? ただでさえこじれた家族だった。直江が支えてくれたとはいえ、もしもあの時にこの事実を告げられていたら。抱え込む苦悩にはたして十四の自分は耐えられたろうか? 直江には解っていたのかもしれない。必要以上に背負い込む自分の性格を。だから何も言わずに離れていった。 打ち明けた今でさえ、ことさらに自分が露悪を装って高耶の負い目を軽くしている。 それは、まるで寄木細工のパズルのようだった。心の中に固く組まれて凝っていた疑念や不信が、ひとつピースが緩んだことでみるみる解けていく。 自分を気遣う冴子の表情をきっかけに、昔の記憶が次々とフラッシュバックした。 出遭ったばかりの公園で、思いつめた貌をして自分を見つめていた直江。 家を飛び出し彼を頼った時の、怒りを必死で押さえ込んでいた、張り詰めた貌。 穏やかに廻廊で交わした会話。 あれはすべて直江の素の顔。 まっすぐに向けられてきた自分への思い。 佐々木の言葉も浮んできた。 この先どんなことがあろうと。と、そう彼は言ったのだ。 まるで今の高耶の逡巡を見越していたかのように。 「ああ…」 涙が溢れた。 どうして忘れていられたのだろう。 冴子たちが直江に向けていたように直江が自分に向けてきた慈愛を。 あの感情に打算などなかった。 気がつかなければいけなかったのだ。他人の感情にあれほどさとく反応する自分があれほど簡単に懐いたのだから。 いくら直江が悪人めいた告白をしたところで、無防備に彼の傍で安らいでいた自分の感覚こそを信じなければならなかった。 例え過去にどんな確執があったとしても。直江が精魂込めて自分をすくい上げてくれたあの心根は本物だから。 あの真摯な思いは疑いようもないのだから。 帰ろう。直江。心の内で呼びかける。 今、解った。自分たちは不如帰だったのだと。此処はとても大切な場所だけど。守らなくちゃいけないものもあるけれど。でも、それに甘んじていてはいけない。 おまえと一緒に、本来あるべき場所へ帰ろう。たとえ、それが、果てのない空の彼方だとしても。 拭おうともせずにただ涙を流しつづける高耶をどう思ったか、冴子はそのまま何も言わずに高耶が落ち着くのを待ち、何も訊かずに家まで送ってくれた。 晩のおかずにと、やはり公園内で評判のコロッケを山ほど土産に持たされたのはご愛嬌というものだ。断りきれずに押し頂いたその包みは冴子の気持ち同様ほかほかと暖かくて、高耶はまた涙ぐみそうになりながら、黙って頭を下げた。 翌日。 夕闇の迫る城山公園に高耶の姿があった。 手すりに持たれて夕焼けを眺めているその様子を、後ろで見守る人影がある。直江だった。 約束のない突然の来訪だが、高耶はさほど驚いた様子もみせなかった。 なによりその背中に自分への拒絶がないことに、直江は複雑な感慨を抱く。もしやと期待する自分とそれを諌める自分と。 「よく、ここにいるって解ったな」 ぽつりと高耶が言った。夕映えを見つめたままで。 「一度自宅に連絡を入れました。まだ帰らないと美弥さんが言うので……後はカンですね」 「そっか…」 ゆっくりと高耶が振り向く。 「夕べ姉からこっぴどく叱られました。歳下の可愛い子を泣かすような真似はするなと。弁解の余地もないほどの剣幕で。……本当にあなたは姉のお気に入りだから」 その台詞に、高耶がしまったという表情をする。人目も憚らずに涙したなど、たぶんこの年頃の少年には噴飯ものの不覚であったろう。見る間に赤らむ頬が如実にそれを伝えている。 だからこそ、確かめたいことがあった。激した感情のままに高耶が無意識に飛ばしたのであろう思念波の真意を。 「…姉の叱責の電話よりも前に…あなたの声が聴こえました。帰ろう。直江と。 あれは……自分に都合のいい幻聴だったんでしょうか?」 それを訊きたくて、こうして来たのだと。 真剣な瞳で語る直江に、高耶がゆるゆると首を振る。 「違う。空耳なんかじゃない。確かにオレが呼んだ……」 同じく真剣な貌をして、高耶は躊躇いがちに一歩を踏み出す。 「ようやく解った。おれの居場所。流離うのでも生き続ける運命でもかまわない。おまえが傍にいてくれれば、それでいいんだ…」 だから。 帰ろう、直江。と。毅然とした響きで。莞爾とした微笑に往年の景虎が重なる。 自分に差し伸ばされたその手を、直江は信じられない思いで暫し見つめ、やがて呆然として押し頂き、温かなその感触に額ずいた。 帰りなんいざ。田園将にあれんとす。 生国の思い出はすでに遠い。自分とっての故郷とは高耶の傍らに在る日々。それは、高耶にとっても同じだと。帰去来の辞に託された、高耶の答えを直江は黙って噛みしめる。 贖いは終わったわけではない。 戦いの決着もついていない。 それでも、確かに自分は救われたのだ。この手を取った時に。 叶わぬと諦めそれでも断ち切れず焦がれ続けた福音が、今この手にもたらされたのだと。 終 |