うだるような夏の陽射しが、プール帰りの濡れた頭を容赦なく照りつけていた。 水遊びの爽快感はとうになく、心もちだるさの残る体には、炎天下のなか家までの道のりが果てしなく遠い。 こんな時は道草に限るとばかり、高耶は正門から帰る友達と別れ、一人、校庭を突っ切って校舎の裏手へと回った。 目立たない位置にある裏門は、夏休み中とあって閉ざされていたが、それを気にする風でもなく、身軽にひょいっと乗り越える。 道なりに歩くより十五分は近道になることを経験上知っている。 そんなふうに道ではないルートをたどり、やぶを掻き分けて抜け出たのは、とある寺院の裏庭だった。 本堂と庫裏のあいだの、まず人気のない場所だ。辺りを見回して、やはり人のいないのを確かめると、 それでも、庫裏の方に向かってぴょこんと頭を下げる。そして、庫裏とは反対側の本堂の廻廊へとよじ登った。 床下も天井も高い開けっ放しの本堂は、涼むのには絶好の場所だった。 そのまま、ごろりと大の字に寝そべる。 つよい陽射しは庇に遮られて、濃い陰をつくっている。一気に汗が引いた。 爽やかな風が、頭の上をすり抜けていった。すぐそばまで迫っている裏の林を吹き抜けてくる風は、まさに天然のエアコンだ。 木立から聞こえるせみの鳴き声が賑々しい。 微かに線香の匂いが漂ってくる。 妙に懐かしい気分になる午睡むような夏の午後だった。 「おや、いらっしゃい」 いつのまにか、うとうとしてしまっていたらしい、頭の上から聞こえる声にはっと目を開ければ、作務衣姿の青年が微笑っていた。 「直江……」 うっかり寝てしまったのが妙に照れ臭い。 口をあけたりしていなかったろうか。よだれはたらしていないよな? 無意識に手の甲で口元を拭ってもぞもぞと居住まいを正す。 生乾きだった髪はすっかり乾いてしまっていて、好き勝手な方向に跳ねている。 いかにも寝起きといった高耶の顔をみつめて、笑いながら青年が言った。 「のど渇いたでしょう。今麦茶を持ってきますから」 「はい。どうぞ」 「……いただきます」 行儀良く言ってから、グラスに注がれた液体を一息で飲み干した。自分で思う以上に体は水分を欲していたらしい、咽喉が鳴るほど、美味しかった。 二杯目を注いでもらってから、添えられていた茶菓子に手を伸ばす。 家では滅多に食べられない老舗の高級水羊羹だったが、いかんせん、子供の舌には高尚過ぎて、その繊細な風味はよく判らない。 アイスの方がよかったな…。 そんな思いが顔に出たのだろうか、くすりと笑って直江が言った。 「すみませんねえ。いただき物のお茶受けで。明日からはちゃんとアイスを用意しておきますから」 ぱっと高耶の顔が輝いて、その後急に赤くなる。 「別に文句言ってるわけじゃ……」 そう言うなり、丸呑みにする勢いで皿の上の羊羹をかきこんでしまった。 「ごちそうさまっ」 「はい。おそまつさまでした」 ぺこりと頭を下げる高耶に、にこやかに直江が返す。 ままごと遊びをしているような自分たちの姿に、どちらからともなく笑いが洩れた。 「久し振りのプールはいかがでしたか?」 気持ちのほぐれたのを察したように、直江が問い掛けてくる。 「うん。おもしろかった!でも、やっぱり暑さは変わんないなぁ。涼しいのは水の中にいるときだけだもん」 口を尖らせて言う高耶を愛しげに見ながら、直江は冷や水を浴びせるような言葉を口にした。 「でも、そろそろ宿題の方も心配しないとね。どうです?進んでいますか?」 教師のような物言いに、とたんに、高耶が首をすくめる。返事など聞くまででもないそのしぐさに、直江のほうがため息を吐いた。 「なんだったら、持っていらっしゃい。ちょうど忙しいのも一段落つきましたし。答えの丸写しは無しですけど、解き方を教えるぐらいは出来ますから……」 「うん!じゃ、また明日っ!」 プールバックを振り回しながら元気よく帰っていく高耶を、直江はその後ろ姿が見えなくなるまで見送っていた。 次の日から、本堂の廻廊は、臨時の寺子屋になった。 にわか家庭教師となった直江が絶句したほど、高耶の学習ノートは真っ白だったのだが、いったんエンジンがかかると飲み込みは早く、面白いように問題を解いていく。 ここ一番の集中力はさすがだなと思いながら、毎日高耶の通う午後が楽しみになっていた。 時々は、高耶にくっついて、妹の美弥もやって来る。 こちらは生来の性格か、あらかたの宿題は埋まっているが、自然観察や実験のページだけがきれいに抜けていた。 ――だって、何描いたらいいか、わかんないんだもん そういう美弥のために、直江は林の中を駆けずり回って、スケッチするせみの抜け殻を探したり、理科の実験と称してシャボン玉遊びに興じるはめになった。 ここまで来ると、寺子屋というよりは託児所である。 子供二人にまとわりつかれて、それでも楽しそうな直江の様子を、橘の父の旧い友人でもある住職夫妻が、微笑いながら見守っていた。 少々、神経症の気のある末の息子をそちらに預けたい───。 そんな相談が持ちかけられたのは一年前のことだった。 一抹の不安を抱えて迎え入れた青年は、だが、非の打ち所のない物腰で、最初は友人に担がれたのかと思ったほどだ。時候の挨拶に訪れたその両親に、腰を抜かすほど驚かれるまでは。 以前の彼を知っていればいるほど、その変化は劇的であったらしい。 その変貌ぶりを喜びながらも首をかしげる両親からあれこれ問い詰められて、そういえば、と、夫妻が思い当たったのは、時々、青年を訪ねて遊びにやって来る小学生の男の子のことだった。 家庭に問題を抱えているその少年の避難所になりたいのだ、と、彼は言った。 そのために、今の自分は存在しているのだと。 そう言い切った青年の顔は、前世からの縁とはこんなものかもしれない……そう思わせるような真摯な表情だった。 地鳴りのような音をたて、思いのほか強い風が木々の梢を揺らして通り過ぎていった。 それまで一心に計算問題に取り組んでいた高耶が、何かに呼ばれたように、ふっと視線を上げた。 それと同時に、林から、ヒグラシの大合唱が聞こえてきた───。 つんざくような轟音に、しばし、廻廊の二人は無言になる。 際限のないカノンのような鳴声がようやく途切れた時、顔を見合わせて高耶が言った。 「あの声聞くと、もう、休みも終わりだな……って、いつも思うんだ。でも、今年は直江のおかげで宿題ばっちりだし。 焦らなくていいはずなんだけど、やっぱ、なんかヘンな気分になる……どうしてかな」 考え考え、自分の気持ちを言葉にして表す高耶を、励ますように見守っていた直江が微笑んだ。 「……昔ね、高耶さんと同じことを言った友人がいましたよ。……そういえば、 あなたに出会ったときも、ヒグラシが鳴いていた。あれから一年なんですね」 「んー。そうだったかな?たった一年前?もっと以前からじゃなくて?」 考え込むように天を仰いで、本気で首をひねっている。直江がそばにいる日々が当たり前になりすぎて、もうそれ以前の暮らしがどんなものだったのか思い出せない。 それなのに、たった一年前だっけ?口に出した言葉と自分の体内感覚のギャップの大きさに違和感を覚えた。 知らずに真実を言い当てた高耶に複雑な思いを抱きながら、さりげなく言い添えた。 「あの時、高耶さんは四年生だったでしょう?……やっぱり夏休みで、あなたは団地の公園でサッカーの練習をしていたんです」 「ああ、そうか。直江、ジュース奢ってくれたっけ」 妙に細かなことは憶えている。ぼやけて曖昧になった記憶が学年というキーワードを貰って、急に鮮明に形をなした。十一歳になったばかりの少年にとって、『四年生』と『五年生』では、言葉のもつ重みに、それこそ天地ほどの隔たりがある。 すっげー、大昔だもんな。四年のオレ。変な気になったのもそのせいかな? あっさり納得して、照れたように笑う。 その笑顔が眩しかった。 |