あの日も、こんなふうにいきなり蝉時雨に包まれた。 団地の中の公園のハンテンボクの並木の下にさしかかった辺りでだ。 焼けるような陽射しがようやく傾き始めて、小立の影も長く延びたそんな時間だった。 「ヒグラシの声聞くとさ。なんか無性に焦るんだよな。俺。ああ、もう夏休みが終わってしまう。早く宿題やんなきゃってな。子どもんときの刷り込みってこみって、恐ろしいもんがあるよな」 夕暮れの気分がそうさせるのか、それとも夏が終わることへの予感だろうか。どこか哀愁をかきたてる鳴声をこう表現して、奥村が笑った。 「でも、橘はそんなことなさそうだな。毎日きちんと朝の涼しいうちにお勉強してました。てタイプだもんな。間際になって焦るなんて思い、したことないんじゃないか」 冷やかすような口調に、傍らの青年がぼそりと応じる。 「そんなことはないさ」 焦燥感ならこの十五年ほど感じっぱなしだ。虚無と慟哭の間を揺れながら無間地獄の熾火に灼かれ続けている。だがそれはむやみに口にしていいことではなかった。 話の腰を折ったまま黙り込んでしまった学友に、奥村は、またかという視線を向けた。 だが、この程度ではもう奥村は動じない。そんな繊細な神経では付き合いきれる相手ではないのは、いやというほど身に沁みている。 汗を拭いながら、手元のメモと周囲の建物群とを念入りに見比べた。 「……二、三、五と……、あそこだな。じゃ、ちょっといってくるわ」 そう言って、婦人ものの布袋をぶら下げ、その中の一棟を目指す。 一人取り残された青年は、投げやりな視線をその後ろ姿に向け、木立の幹にもたれかかった。 奥村とはもう数年来の付き合いになる。というより、向こうの強引な働きかけで関係が保たれているようなものだった。 何にせよ、面倒見のいい男だ。こんな自分の何処が気に入ったものか、家にまで足繁く出入りし、橘の母の絶大な信頼を得ている。 揚げ句に、修行先の松本の寺へ挨拶に出向く自分に、お目付け役として同行する始末だ。 今も、団地に住む檀家の老婦人の忘れ物を、宿への帰り道だからと、届けによったところだった。 もしも――、別の時代、別の人生だったら、この男は得がたい友になったろうに。 ぼんやりと、そんなことを考えた。 今の自分には精神の安寧など過ぎた望みだ。感情はとっくに擦り切れていて、唯一の願いは、ときに、信じることさえ忘れてしまいそうになる。 眼を閉じれば、いつもあの視線が待っている。 血を吐くような呪詛の叫び。憤怒と憎悪を叩きつけられたあの瞬間に。 もう二度と逢えないかもしれない。絶望しながら、それでも願う。 もう一度。せめて一目、あの人の笑顔を。それを抱えて自分は闇に堕ちてゆくから。 いつもの堂々巡りが始まって、直江は自嘲の笑みを浮かべた。 幻想を振り切るように眼を開く。 それまで無人だった乾ききった土の広場に、いつのまに来たのか一人の少年の姿があった。幾つぐらいなのだろう?普段子どもと接することなどないだけに、小学生らしいのは判るがそれ以上は見当がつきかねた。 きつい西日があたるのにも構わず、仲間がいないことなど気にもしない様子で、子どもは一心不乱にボールを蹴っている。 なぜか目が離せなかった。 何かが精神のアンテナに引っかかる。むくむくと黒雲のように湧き上がる疑念に冷汗が出る。咽喉が干上がり、体が小刻みに震えだした。 まさかそんなはずはない。あれほど捜し求めていた人物がこうも都合よく目の前に現れるなど。第一、あのひとならば、自分に気づかないはずがないのだ。あの……。 「橘?おい、どうした?真っ青だぞおまえ……」 遠く水底から響くような声がして、すべてが暗くなった。 気が付けば、ベンチの上に寝かされていた。 覚醒と同時に跳ね起きて、ふらつく体を支えられた。気遣うその手を振り払って、直江は相手の胸倉を掴んでいた。 「あの子は?あの……男の子は何処に行った?」 血相を変えて詰め寄る友人に、奥村は度肝を抜かれる。 「男の子って……何のことだ?俺が戻った時には、おまえ、真っ青な顔して、崩れそうになっていて……」 とても、周囲に眼を向けられる状態ではなかったのだが。 「いたんだ!」 もどかしげに直江が叫んだ。 「あそこの広場で!サッカーをしていた。小学生ぐらいの男の子が……」 「判った。判ったから、少し落ち着け。……だとしたらここの団地の子だな。きっと。ちょっと、訊いてみて来るから。何か、特徴は?どんな感じの子なんだ?」 今度は直江が言葉に詰まった。 残像は強烈に焼きついているのに、言葉にしようとするとすり抜けてしまう。まるで、水に飢える砂漠の旅人が逃げ水を追うようだ。 それとも、あれはやはり狂い掛けた精神が見せる幻だったのだろうか。 呻き声を上げて顔を埋めてしまった直江を心配そうに奥村が覗き込んだ。 思えば、ここまで取り乱したこの友人を見るのは初めてだ。何か深い理由があるのだろうと、 とりあえずは手当たり次第に通りかかる子どもたちをつかまえ、心当たりを訊くことにした。 ――やっぱりここの団地の子らしいな。たかや、おうぎたかやって子がそうらしい。四年生だそうだ―― 苦労の末の奥村の情報を元に、直江は次の日、再びこの公園にやってきた。 ――クラブにも入っているけど、一人で練習ってことも多いらしい。内向的な性格なのかな?ほとんど毎日広場で練習してるそうだ。なんだか熱心すぎて、遊び半分のやつらが近づけない雰囲気だって言ってたぞ。 …って、おい、橘、聞いてるか?―― 眩暈がした。やはりあのひとだ。直感がそう告げる。どんな姿になろうと、あの精神は変わらない。 その夜、しばらくこの街に滞在すると言い出した友人を、奥村は複雑な思いで見つめた。 こうなりそうな予感はあったのだ。あの、別人のような執着ぶりを昼に見せられてから。この男が裡に隠し持っていた激情。それが何なのか知る術もないが、他人が踏み込んではならないことだということだけは判る。 ――わかった。でも、無茶はするなよ。一度、暑気当たりしたの忘れんなよ―― こう言って、奥村は一足先に帰っていった。 そして、今、自分はここにいる。何かに導かれるように、彼の現れるのを待っている。 指を固く組み合わせ、祈りたいような気分だった。 練習に来るのは午後が多い――と言っていた。まるで自分を虐めるように一番暑い盛りを選ぶのだと。 果たして、その言葉どおりだった。広場に現れた少年は、特にストレッチをするわけでもなく、すぐさまボールを蹴り始める。公園内のさまざまな遊具の間をドリブルしながらすり抜けていく。何度も、何度も。 眼の奥に焼きついているのと寸分違わないその走りに、直江は魅了されていた。 まさしく彼だ。 歓喜が全身を突き抜けた。あの存在が、再びこの世で生きはじめたのがたまらなく嬉しかった。 |