幾日かが過ぎた。 連日公園に佇む男に気づかないはずはなかったが、それでも少年は自分の練習に専念している。 その無関心さが不安を呼んだ。 自分だと言うことに気づかぬはずはない。それとも、これが彼の答えなのだろうか。自ら恥じ入って、姿を消すのを待っているとでも。 袋小路にはまり込んで身動きが取れない。いすくめられた鼠のようだ。 葛藤は日に日に高まっていく。 ただ、見つめているのが苦痛になっていった頃、不意に、少年の足からボールが逸れて、直江の足元へと転がってきた。 まるで運命そのものを抱える重みで直江はそれを拾い上げ、少年に向き直る。 ボールを追いかけてきた少年は、見知らぬ青年を警戒するように距離をおいて立ち止まった。 まっすぐにこちらを見つめるその眼差し。何ものにも臆することのない不遜な眼つき。まごうことなき景虎の瞳だった。 だが、それと同時に、見知らぬ他人を見る子どもの眼でもあった。自分という存在に何の含みも持っていない。 そのことが、ひどく直江を傷つけた。 憎まれているだろうと思っていた。 それだけの仕打ちを自分は彼にしたのだから。 向けられるのが憎悪の視線だったなら、たじろぎながらも受け止める覚悟はあったのだ。 だが、これは何なのだろう? 景虎の瞳が、他人を見る眼で自分を見つめる日が来るなどとは思いもしなかった。 ボールを手にしたまま、呆然としている男に少年は焦れたらしい。一歩近づく。我に返って、直江はそれを投げ返した。 足元に転々と転がるボールを拾って、高耶は謝意を込めて軽くお辞儀をする。 背筋のすっきり伸びたその所作は、見知らぬ他人が見たらさぞ親の躾の行き届いたと思うだろうが、そうではないことを直江は知っている。景虎のしぐさなのだった。 記憶を失ったのではないか――。ひとつの可能性に思い当たる。 そしてもうひとつ、別の考えが脳裡をよぎった。 あまりに虫のいい考えで、慌てて打ち消したが、それは金属を腐食させる強酸のようなスピードで心を蝕んでいく。 もう一度、やり直せないだろうか。このまま、何も知らない景虎を。ただ慈しんで。他の誰にも知らせずに――。 裏切りになるのは承知している。それでも、と、姑息な言い訳を考える。 このまま、記憶のないような子どもを大将に戴くわけにはいかない。ましてや、戦闘に巻き込むなど論外だ。 まずは後見人として翼の中にその身柄を庇護すること。そう、弁解してみせた。 また次の日。 今度は〈力〉で転がしたボールを拾い上げて子どもに近づく。 「こんにちは」 怪訝そうに、それでも会釈だけは返す子どもににっこりと笑いかけた。 「一人ではつまらないでしょう。お相手しましょうか」 しばらく考え込んだ高耶だったが、一人で蹴るのに飽き飽きしていたのは事実だったので、用心深く頷いた。 不審そうな視線はそのままで、それでもパスの練習を始めた。 やっぱり相手がいるのはいいな。 そんな思いが次第に高耶の顔を綻ばせていく。 無心に楽しみながらも、負けん気は人一倍で自分のミスでボールが逸れると悔しそうに唇を噛む。 ひとつふたつアドバイスすると、上達の手応えを実感して、見る見る笑顔がひろがった。 気が付けば夕暮れが迫っていた。 「ちょっと待っていてくださいね」 自販機でジュースを買い、汗を拭っている高耶に差し出すと、嬉しそうに顔が輝いた。 「ありがとう……えっと…」 「直江です。直江信綱」 数え切れないほど呼ばれた名を改めて告げる。きょとんとして見入る顔に胸がつかれた。 「のぶつな…さん?」 礼儀だと思ったのか、下の名を言いにくそうに発音するのを聞いて、苦笑が洩れた。 「直江でいいですよ」 「なおえ?」 女の子みたいだなと思いながらも、その響きのよさが気に入った。 「いいの?呼び捨てで」 あくまでも、目上として接してくれるその持ち上げ方がくすぐったい。 「まあ、あだ名みたいなもんですから。あだ名にさん付けする人はいないでしょう?」 そう聞いて、ようやく納得したらしい。ふっと、高耶の態度が柔らかくなる。 「ありがと。直江」 その笑顔に吸い込まれそうになった。 いったん打ち解けてしまえば、高耶は人懐こい子どもだった。そして、心淋しい子どもでもあった。 ぽつんぽつんと話す言葉の端々から、彼の家庭が居心地の良いところではないのを知る。 「おとうさんの仕事上手くいってないみたいなんだ。お母さんは子どもが気にしなくて言っていってるけど……」 何も知らないままでいるほうが辛い、と、その表情が語っていた。 無力なのが悔しい。守りたいものはあるのに。それの出来ない己が歯痒いと。 その顔に、表情に、しぐさに、かつての景虎が重なる。 そんな彼をただ見守りたかった。その矜持を守ってやりたかった。そして、無防備に心開いた笑顔を自分だけに向けて欲しかったのだ。 望みはそれだけだったのに。 与えられた使命との狭間で、想いは、いつかねじれて歪んで、手酷く彼を裏切ることになってしまった。 「直江?」 黙り込んだ男を覗き込んで、気遣うように高耶が呼びかける。声変わり前の、天使のように澄んだトーンで。 涙がこぼれそうになった。 何があっても、今度こそあなたを守るから―――。そう心に誓った。 「直江は他の大人とは違うよな?」 不思議そうに高耶が呟く。 「どうしてそう思うんです?」 「そうして、すごく丁寧に話してくれるとこ。ほら、子ども相手だとさ、言葉だけていねいにしたって態度がミエミエだし。かえって馬鹿にされてるようで腹が立つんだけど」 「じゃ、私にも腹が立つ?」 悪戯っぽく問い掛けると、高耶はぶんぶんと首を振る。 「だから、そうじゃないのが不思議なんだよな」 そう言って、手にした袋からポテトチップスをばりばりと食べる。ちなみにこれは直江からの差し入れである。 その頃の直江は、すでに修行という名目で松本のこの寺に厄介になっていた 。学校とは、丘をはさんだ隣り合わせということもあって、高耶がよく寄り道をする。 顔を合わせれば、はにかみながらもきちんとした挨拶をする高耶のことを夫人はすっかり気に入ってしまい、 何かとおやつを奮発してくれるのだが、回を重ねると、さすがに気が重くなってくる。 いつのまにか、庫裏からは死角になる本堂の廻廊が高耶の指定席になっていた。 足を欄干からぶらぶら出して、高耶はまだ考え込んでいる。 そうしながら、袋を持つ片手をぬっと突き出したのは、食べるか?という無言の問いかけらしい。 笑いながら断ると、再び自分の口に運び始める。 「さては、先生と何かありましたか?」 ぶすっとした顔で高耶が頷いた。 「コトバだけきれいで、先生何も見てねーんだ……」 どうやら教室内の揉め事が原因で人間不信に陥っているらしい。この様子だと、悪者にされたのは高耶のようだ。 「大人の言葉遣いが気になるのはね、あなたが、きちんと人の心が判る証拠ですよ。高耶さんはいつも逃げ回っているようだけど、ここの奥様も嫌いですか?」 突然変わった話題に戸惑いながらそれでも慌てて首を振る。 「ちょっとくすぐったいだけで、厭な気持ちじゃないでしょう? ……それはね、奥様が本当にあなたのことを可愛く思っているからなんです。 もちろん、私もね。あなたのことを理解しない大人もいるけど…、心から愛している人間が近くにいることを忘れないで……」 宝物のような言葉だった。 傾きかけた陽射しがざわめく葉っぱに金色の光を投げかけている。いつのまにか、夕暮れの時刻がずいぶん早まったようだ。 雨だれのように続いていた蝉の声もとうとう終わって、あたりが急に静まり返った。 「もう、ほんとに休みも終わりだな……」 ぽつんと高耶が呟く。 そして、潜水でもするように大きく息を吸い込むと、直江の眼を見つめて言った。 「じゃ、オレ帰るから。もう夕方だし。……いろいろありがとな」 ばたばたと荷物をまとめて、高耶は張り詰めた雰囲気の家へと戻る。 あれから、両親の仲はいよいよ険悪なものになりつつあった。 自分も美弥も心を痛めずにはいられないけれど、それでも、 直江が傍にいてくれる今年の夏は、去年とはずいぶん違う。 こうして一杯元気をもらって、また頑張ろうという気になれるから。 この先、どんなことになろうとも、高耶が、凍えた心で夜空を見上げることはない。 自らに重ねるのは、孤高のシリウスではなく、寄り添う同胞を持つアルビレオなのだと、これは、そんなもうひとつの星のはなし――――。 |