夏宵悠遠
―4―



「……家臣同士の反目はあったものの、あなたがたは仲の良いご兄弟でいらした……。跡目などまだまだ先のこと。父君のご威光があまねく行き渡っていて、思えばそれなりに平穏な日々だった……。 だから不思議だったのです。あなたが何故、家法に背いてまで家中の、それも景勝公直属のの者たちを殺めたのか…」
「直江?」
「……まるで白昼夢のようでした。百合の野を進むあなたの頬に血が一筋走っていた……。身に着けていた狩り装束にも暗朱の飛沫が幾筋も」
こんなふうにと、直江の手が先ほどなぞった高耶の頬に触れる。
「……遠目に見ただけです。もしかしたら、本当に花粉の汚れだったのかもしれない。私には確かめようもなかった。
歩み去るあなたを誰何することも出来ず近づくことすら敵わず、金縛りに遭ったように身じろぎひとつならなかった。
ようやく自由が利く頃には、すでにあなたはその場から消えていた。
踏みしだかれ折れ伏した百合が微かに道すじを残していて、確かに今のはあやかしでも精霊でもない生身の人なのだと告げていた。
それを辿った先には、背後に一太刀、袈裟懸けに切られて絶命している私の朋輩の骸がありました。他にも数人、いずれも鮮やかな太刀筋で倒されていた。
みな、袴を解き、下帯を緩めた情けない格好で……、切り捨てられた男の下には、同じく絶息した里の者らしい野良着姿の娘が一人。……強い百合の香が血の匂いも性臭さえも消してい たけれど、そこで何があったのかは一目瞭然でした」

重苦しい沈黙が落ちた。高耶はもちろん、直江にとっても。
何故、今更と、語りながらも自問は続いている。
おそらくこの記憶は高耶には痛みしかもたらさない。忘れ果てているのならそれでいい。なにも古傷を抉る真似をしなくてもいいのではないかと。
それでも、やめるわけにはいかなかった。
屈託している自分を高耶に看破された以上、その場限りのごまかしや沈黙は高耶の猜疑を呼び寄せてしまうから。そして、その感情のせいで誰より深く傷つくのは彼自身なのだ。 自分の浅慮のせいで二重に高耶を傷つけてしまうことだけはなんとしても避けたかった。そのために、秘匿していた己の醜悪さを曝すことになったとしても。

「……では、あの娘は死んだのか?」
暗然とした口調で高耶が訊ねる。その凛とした響きのなかに嘗ての景虎を嗅ぎ取って、記憶が甦ったのだとしれた。迷いを押し隠し低頭して直江は淡々と語り続ける。
「ご存じなかった?致命傷にあたるような刀傷はありませんでした。縊り殺されたわけでもない。おそらくは暴行と恐怖に心の臓が持たなかったのでしょう……。私が見たときにはすでに事切れておりました。娘ひとりに四人がかりなど、惨い真似を……」
「そのうえ、人斬りまで目の当たりにさせてしまった……。訳もわからずに血飛沫を浴び断末 魔の痙攣を見せ付けられては、次は己の番だと慄いても詮無きこと。可哀相なことをした……だけど…」
そうせずにはいられなかったと、振り絞る声でいう。
「狩の途中、獲物を追ううちに供とはぐれた……悲鳴が聞えて、そこだけ風もないのに百合の花が揺れていた。そこかと思い掻き分けてみれば、あの光景だ。押し広げられた白い腿が目に焼付いている。それを伝う鮮血も。そこにのしかかる男は下卑た獣のようだった。その周りでやんやと囃したてる輩も皆血走った眼をして娘の泣き叫ぶ様を愉しんでいた。
我慢がならなかった。あの娘はオレ自身だった。
助けるだなんてそんな体裁のいいものじゃない。ただ切り捨てたかった。オレは…切り捨てたかったんだ。あの日の……全てを」

両腕で自らの肩を抱き、苦痛に耐えるように蹲る。
心傷は高耶にも深く存在する。
それが、初生の景虎であったならばなおいっそう生々しく忌まわしい傷が。
思わず抱きしめようと伸ばした手をすんでのところで握りこんだ。

  やがて、高耶がゆるゆると身を起こす。遅すぎた断罪を待つように、その瞳は静謐な色を湛えている。
「隠していたわけじゃない。裁きを恐れたわけでもない。……本当に記憶が抜け落ちていた。その後のことは、まるで水の底から見上げる景色みたいになにもかもが曖昧なままだ……」
現に今も思い出せないと、高耶が虚ろに笑った。
問うような瞳でみつめられて、直江が応じる。
「……その後のあなたはしばらく臥せっておられた。暑気あたりという名目で秋風の立つ時分まで。……我等の間では花の顔(かんばせ)に違わず相模の御曹司のなんと脆弱なことよと、噂にもなっておりました。誰も疑わなかった。疑いようがなかった。あなたが四人もの男を切り捨てたことなど……」
「なぜおまえは黙っていた?朋輩を新参だったオレに斬られて。おまえらしくもない。子飼いを失った景勝の下手人探しは苛烈を極めたのだろう?」
まるで詰るような物言いに直江が苦く微笑する。
だが、高耶に他意はない。確かに当時の直江に景虎を庇う理由は何もなかった。むしろ、彼とその側近たちに打撃を与える絶好の好機だったのだ。
戦さ場で血が騒ぐのは男の生理。朋輩たちのあの行為は誉められこそしないが僅かな金子で揉み消される類の瑣末事。里の娘一人の命など塵芥のように闇に葬り去るのが習いの世だったのだから。そういう意味では貴重な戦力である家中の者を問答無用で手に掛けた景虎の方がずっと罪は重い。
「何故でしょうね……」
微笑はいつか自嘲に変わっていた。
「あの頃のあなたは私にとって目障りな存在だったのに、思えば、すでに私はあなたに惹かれていた……。あなたの所作振る舞いを、その言動をあげつらったのはその気持ちの裏返しだったのでしょう。決して自分では認められはしませんでしたが。
日毎夜毎(ひごとよごと)あなたの幻を見ました。美しくも凄絶な、血まみれで百合野に立ち尽くすあなたを。
初めての心持ちでした。ここまで惑うからには、きっとそれが人間ではない妖だったのだと、他人に聞かせるべき話ではないと、そう結論付けねば正気が保てそうになかった。いえ、これ も言い訳に過ぎませんね。
……本当は、私はそんなあなたを独り占めしたかっただけかもしれない。好むと好まざるに係わらず、沈黙を選んだ時点で私はあなたの共犯者になった。あれはあなたと私だけの秘密だった……軽蔑しますか?理を説きながらその下で劣情を滾らせていた私のことを?
どうやっても届かない高嶺の花を妄想でしか手折れなかった馬鹿な男を。夢の中であなたはあの娘になり、私はあの男どもと同化して幾度もあなたを蹂躙していたのだから……」
「直江…」
思いがけない告白を聞かされて、高耶は竦んだように固まってしまっている。
信じられない、信じたくないとそんな眼で凝視する。それを真正面で受け止めて直江は静かに首を振った。
「……ずっと不思議だった…あなたのあの静かな狂乱の態が。ようやく合点がいったのは……」
あの暗い松林で記憶を取り戻した高耶を知ってから。その凄惨な過去を告げられて、ようやく曖昧だった欠片のすべてが形をなした。
同時に、改めて己の罪深さを思い知った。景虎に抱いていた妄執に、そして景虎を襲い貶めた男たちと何ら変わらない自分の浅ましさに。
その日から、百合の香気は、直江にとっても責め苦となった。
優しいなんておこがましい。
高耶のため以上に、それは自らの保身のためだった。湧き上がる慙愧をなだめるために。至高の存在を汚し続けていた後悔を飼い馴らすために。心地よさだけを与えたいと願いながら、常に脳裡には二重写しにあの幻影が存在していたのだ。

舞台が暗転するように、いつか立場が入れ替わる。裁かれるべき咎人はいつしか直江の役ど ころとなり、うなだれたまま、断罪を下す高耶の言葉を待っている。

俯いた面に、高耶の手が伸びて頬に触れた。
電撃に打たれたように、直江がその貌をあげる。
透明な眼差しで微笑む高耶がいた。
「……そんな男にオレは惹かれたりなんかしない。オレのおまえは……いつだって真摯だった」
そうだろう?
ともに歩んだ永過ぎるほどの年月の間、その事実を一番近くで見ていた。
たとえおまえがその妄想の中で初生の身体をいいように嬲っていたとしても。
おまえはあの男たちとは違う。
嫌悪など湧かない。湧きようがない。
時に背叛する感情に苦しみながら、それ以上に勝る想いが在ることを、おまえは、ずっと証明し続けていたのだから。それに守られながら、オレはとっくに心を許していた。言葉にはしなくても。態度にさえだせなくても。
最後には己を捨ててもオレを選び取ってくれる、そう信じさせてくれるおまえがいたから、ここまでこれた。おまえがいれば傷は傷じゃなくなるんだ。
おまえはもっとそれを誇っていい。直江……。

膝立ちになって動かない身体に近づき、頭を胸元に引き寄せた。このうえなく大切なものを扱うように、両の腕で柔らかく抱きしめる。

「……この身体はおまえの焦がれていた景虎のものじゃない。孤高でもなんでもない。おまえ は全部知り尽くされている身体だけど……それでもいいなら……」
全部ぶつけてこいよ……。受け止めるから。
今度こそ。
苦しいばかりだったこの香りを、別の想いで塗り替えよう。

言葉が、触れ合った高耶の胸郭から直接に響いてくる。その心情とともに。
二度、三度と瞬きを繰り返していた直江が、そろそろと高耶の背に腕を回してきた。躊躇いがちに背筋を這い登っていったその手に、突然、力が込められる。
息苦しいほどの抱擁に、万感の想いが伝わってきて、高耶が幸福そうに微笑んだ。

お返しとばかりに少しだけ抱き返す手に力を込めて、その貌を引き上げた。
珍しく強張った余裕のない表情で自分を見上げてくる男に、思わず笑みが深くなる。
揶揄するように諭すように告げた。
「……もう手加減なんてするなよ?」
思いがけない高耶の言葉に、鳶色の瞳に一瞬驚いたような色が浮び、すぐさまそれは獰猛な笑みに取って変わる。
「あなたこそ。後悔しても知りませんよ?今夜はもう泣いて頼まれたって止まらない。覚悟してください」
「……誰がするか。そんなみっともねーこと」
高耶がふふんと鼻で笑う。対する直江もふてぶてしさでは負けてはいない。
「……それは楽しみだ。忘れないでくださいね。今の台詞」
互いの吐息を感じる位置で、秘密めいて囁かれる売り言葉に買い言葉。煽り、煽られて、やがて堪えきれずに唇を合わせる。むさぼるように貪欲に。

悠遠の刻を経て、一面の百合野の風景がようやくその意味合いを塗り替えた夜。
噎せ返るような芳香のなか、獣のように絡み合う影を、白い花だけが見届けていた。




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けっこう重たい話でした(当社比)
なにげに和綴じの設定使ってます
これ書いてたのは原作終わった直後ぐらい?
まだ痛みに立ち向かう勇気があったよな〜と今改めて思います
で。
こすげさんがこれまた美麗な景虎さま描いてくださって♪
触発されて書き散らした番外がパロ部屋はじめあちこちに散っています
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