百合の花瓶は最初の日以来寝室に置いてある。 花が開くのは深夜から明け方にかけて。 開花から時間が経てば、蕊も花びらと同様に綻びだす。その先手を打つように、直江もまた、夜更けに花の手入れをするのがここ数日の日課になった。 半分開いた花弁の間から、慎重な手つきでまだしっとりと瑞々しい臙脂の塊を引き出している。その注意深い様子が、メスを操る外科的処置を連想させたのか、ベッドに寝そべって見るともなしに眺めていた高耶がぽつりと言った。 「まるで去勢してるみたいだな」 「……そうかもしれませんね」 それまで無言でいた直江が、最後の花葯を丁重に摘み取ってから、高耶に応じた。 「自然のものにこうして人工的に手を加えて、見栄えをよくしたり、花の寿命を引き伸ばしたりしている。花本来の目的は別なところにあるのに。ほら、みて。高耶さん。孕みたくてたまらないのに、いつまでたってもその相手が来ないものだから、雌蕊が蜜を垂らして泣いていますよ」 たった今まで大切に扱っていた、花のひとつを付け根からむしりとる。 その仕草に高耶が一瞬目を瞠った。 穏やかな表情の下に隠されている剥きだしの感情。危うい均衡を突き破って獰猛な姿が垣間見えた気がして。 そんな高耶に視線を据えたまま、直江はことさらに見せつけるように、柱頭から滴りそうに溜まっている透明な雫を舐めてみせる。 花にくちづける男の図は、ぞくりとするほど艶めかしかった。 高耶は魅入られたようにみつめている。 「夜毎朝毎花の嘆きが聴こえませんか?香りに煽られて俺はおかしくなりそうだ……」 ゆらりと立ち上がった直江がベッドに乗り上げ、のしかかるようにして囁いた。 葯を潰して紅く染めた指を高耶の頬に走らせ、鉄錆色の筋をその肌に残す。 「きれいですよ…まるで……」 何かを言いかけたまま、同じ指が今度は唇に触れる。 紅を注すようにその形をなぞろうとした時、されるままだった高耶が不意にその指先を口に含んだ。 「!」 そのまま男の指を口腔に迎え入れて舐りまわす。舌を刺す刺激にわずかに顔をしかめながら、それでも吐き出そうとはせずに濃やかに清めていく。後戯を思わせる淫靡な舌の動きで。やが て聞こえよがしの湿った音を響かせて、指から唇が離れた。 半眼になった高耶が見上げてくる。 「いいんだぜ?おかしくなっても。我慢なんてしなくていい。オレなら壊れたりしないから…」 「高耶さん……」 「おまえ、ずっと優しかったから……」 言葉を捜すように言いよどんで首を傾げる。 「いや、違うな。おまえが優しいのは前から知っている。でもやっぱりヘンだった。……あの日からまるで壊れ物に触れるみたいに。それが嫌なんじゃない。 だけど、それでおまえが辛かったら意味ないだろう?遠慮なんかするな」 「…辛そうに?」 直江が意外そうに眉をひそめる。 「そうみえましたか?あなたには……」 こくりと、高耶が頷いた。 この一週間というもの、直江はまるでまわたで包みこむように高耶に接していたのだ。寄り添って眠るだけのときはもちろん、行為に及ぶ時も。それは誕生日の夜をなぞるように丁重で穏やかで、まるで雄の猛々しい一面を高耶に見せまいと懸命に自制しているようでもあった。 そんなもので怯えるほど今の自分は初でも無垢でもないのに。そう思いながら、とうとう口には出せなかった。直江の瞳に浮ぶ、どこか苦しげな屈託には触れないほうがいい……そんな警報が頭のどこかで鳴っていたから。 我知らず洩らした言葉。それはここしばらく無意識に感じていたこと。むしろ去勢を強いられているのは、直江自身のような気がして。そんな思いが口に出た。言いながら、しまったと 思ったけれど、もう後には引き返せなかった。 そしてその挑発的な台詞に、あっけないほど簡単に直江は嵌まったのだ。 とことん話し合うしかないと、そう腹を括った。 互いに互いの表情を窺いあう暫しの間。 やがて直江は、重いものを吐き出すように口にした。 「……あなたは……苦手なのだと思っていました。ずっと……」 思わせぶりに逸らした視線の先には先ほどちぎり、ベッドに放り投げた百合の花。遠まわしに問い掛けてくる言葉に、高耶は不意にそれまでの男の心配りに思い当たる。 「……気づいてたのか…」 口にしたことはなかった。そんな機会もなかった。きつい香りは、その甘さに酔うというよりは、なぜか苦しいほどに胸にせまってきて、落ち着かない気分になることなど。 思えば、事あるごとに平然と花を買う男なのになぜか百合だけは贈られた覚えがないのが不思議といえば不思議だったけれど、それも、単なる偶然だろうと思っていた。或いは、男自身が好きではないのだろうと。 「誕生日のあの花束を見たとき、正直言って焦りました。……でも、これはチャンスなのかもしれないと思い直した……。あなたの香りの記憶を塗り替えられるかもしれないと。結局、煽られたのも気遣われたのも私の方で、とんだ薮蛇でしたが…」 「香りの記憶?」 今度は高耶が首を傾げる。 「そうです……。それとも覚えていらっしゃらない?不思議には思いませんでしたか?百合の香になぜここまで心が乱れるのか……」 「……」 意識したことなどなかった。そもそもそんな理由があるのだとも思わなかった。ただこの花の香りが苦手なだけ、無意識に遠ざけていただけ…。それだけではない?直江とも係わりのある何かがあったのだろうか。 考え込む眼の色になった高耶に、直江はなおも躊躇いがちに言葉を足す。 「……避けていたのはむしろ私の方だったかもしれない。この匂いを嗅ぐとね、決まって一面に百合の咲き乱れている光景が浮ぶんです。そして、噎せ返るような芳香のなか、蹌踉と歩み去るあなたの姿が」 言葉を切って見つめる先には、怪訝そうな高耶の顔がある。何を言われているのかまったく理解らない…そんな瞳で。その色に嘘はなく、窺うように黙り込んでいた直江がやがてほっと息をついた。 「ずいぶん昔の話だから…あなたにとっては記憶にとどめる価値もなかったのかもしれませんね…でも、私は忘れられなかった」 「昔って…いったい何時の話だ?」 「初生の…、まだ謙信公がご存命だった頃の」 「………」 黙り込む高耶の表情がどんどん深いものになっていく。 「百合…山百合か?」 呟く言葉は直江に向けられたものではない。記憶の淵へ潜るための自らの手がかりだ。 直江はそんな高耶を複雑な眼で見守り、やがて標の糸を垂らすように語り始めた。 |