霜月



まるで猫の目のようにくるくると変わる空模様だった。
それでも気まぐれな龍田姫は、高耶たちには微笑みかける気になったらしい。
とある史跡に隣接する駐車場にウィンダムが滑り込んだのは、雲の切れ間から陽射しが洩れ、 この晩秋特有の目まぐるしいお天気もようやく落ち着いてくれるのかと高耶が胸を撫で下ろした、そんなタイミングだった。 氷雨の中での見学などいくら直江の薦めでもまっぴらだと内心では思っていたので。

元は藩主の隠居所だったというこじんまりとした書院造りの建物は、後に藩校となり、現在は町立の博物館もしくは歴史資料館といった性格を課せられて、一般に開放されている。
何よりも付随する庭園が素晴らしいのだと、直江は言った。
別にこの地方の藩史に興味があったわけではない。
格式ばった庭を観賞する趣味もない。
ただ、長時間のドライブに強張った身体をちょっと伸ばしたくなっただけ。気分転換に外の空気を吸いたいだけ。そんな程度の投げやりな気分だったのだが。
入館料を支払って建物と垣根との間の枝折戸を潜り抜けたとたん、拓けた視界に飛び込んだ見渡す限りの水面に度肝を抜かれた。

「うっひゃあ、鯉だっ!鯉。バケモンみたいな大きさだな…」
広大な池の中を泳ぐ錦鯉は、体長が七十センチはあるだろうか。そんな大物が手の届きそうな池の縁まで近寄ってきては巨体を見せびらかすように悠然とターンをしてみせる。
光に透けて煌めく鱗や揺れる背鰭の曲線の美しさに見惚れていると、いつのまにか近づいてきた直江が種明かしをしてくれた。
「きっとこれが欲しいんでしょう」
手渡されたのは、袋入りの鯉の餌。
ためしにと投げ入れてみればたちまち池中の鯉が集まってきたかと思うような大騒ぎになってしまった。
「なんなんだよっ!こいつら」
餌に群がる魚が跳ね上げる飛沫に辟易して、それまでしゃがみこんでいた高耶が飛び退る。
とても餌を与える情緒を楽しめるような状況ではない。
先程までの優美さは何処へやら、餓鬼の一群と化してしまった鯉たちに、残りを一気にばら撒いて早々に退散することにした。
「……見ちゃいけないものを見た気がする……」
呆然と呟く高耶に、傍らの直江が声を出さずに笑っていた。

ぐるりと池を周回するように設計された小道は、庭園というよりは、山野に分け入るようだった。
眼の端に常に水面を臨みながら、そこに流れ込む小さなせせらぎに掛けられた丸太を渡り、鬱蒼と繁る樹木の根が蛇のようにのたうつ地面を歩く。
水面に覆い被さるように張り出した楓や桜の枝。
小暗い闇を作る杉木立。苔むした切り株。
そして風の吹き抜ける竹林。落ち葉の朽ちる匂い。
後ろに控えた丘陵地まで借景に組み入れて、佇んでいると、まるで自分が幽玄の深山にでもいるような気がしてくる。
肉体から魂がすり抜けていくような不思議な感覚。
たとえ身体は去っても魂の一部はここに永遠に留まって自然に溶け込むのだろうという予感。
独りでいることが淋しくはない、むしろ至福に思えてしまうそんな静寂を湛えた空間。時の流れから切り離された永遠―――
少しだけ、羨ましかった。そういうのも悪くないなと、流されそうになった瞬間、
「わざわざ京都から庭師を招いたそうですよ。……それがちょうど400年前。それだけここの樹も古びているわけですね……」
割り込むように聴こえてきた声に、不意に現実に立ち戻る。
直江が見つめていた。
たとえ一瞬でもその存在を忘れ果てていた自分の心の裡まで見透かす眼で。
「ふうん……」
後ろめたさを隠すように、さも納得したように桜の古木に見惚れているふりをする。
傾いだ枝から垣間見えた空は、またしても、泣き出しそうな灰色をしていた。

降りだした雨に気づいたのは、睡蓮のように花開いた水面の波紋のせいだった。
ゆるゆると広がる同心円はやがて互いに干渉しあって泡立つような漣となる。
頭上を覆う樹冠が雨よけの役をしてくれて、しばらくは濡れずにはすんでいるものの、雨脚は強まるばかり、雨宿りにと飛び込んだのは、島のひとつに建てられていた茶室と思しき離れだった。
「ここ、立ち入り禁止だ」
ためらう高耶にこともなげに直江が言う。
「今日だけは目を瞑ってもらいましょう。あなたに風邪をひかれては申し訳ない。寒くはないですか?」
「平気」
庇のある濡れ縁に腰掛け、降りかかった雫を拭いながら高耶が応えた。

樋のない桧皮葺の屋根の隅から、リズミカルな雨だれの音がする。
そういえば、そういう歌詞の歌があったな……そんなことを思いながら高耶はそのまま雨の音に耳を傾ける。
驟雨に煙る景色と途切れることなく大気に溶け込む雨音。
そして、そこに重なる澄んだ音を響かせる雨だれの雫。
傍らに立つ直江はずっと空を睨んでいる。一刻でも早く上がるのを念じているのだろうか?
そんなに急がなくてもいいのに。そう思った。
直江とふたり雨に閉じ込められるのも悪くない。
ふたりきりでいるのが息苦しくない。気まずくもない。
こんなふわふわした時間ならいつまでも続いてほしい―――
直江の横顔を見ながら、いつのまにかそんなことまで考えていた。
と、まるで心を読んだように、突然その端整な顔が大写しになる。
鳶色の瞳がきれいだ…そんなことを思っているまに、ふわりとくちづけが落とされた。乾いた温かな感触だけが唇に残る。
高耶が不思議そうに直江を見上げた。
「…なんで?」
「あなたがまたどこかに行ってしまいそうだったから。さっきみたいに」
だから、繋ぎとめたのだと、穏やかな笑みで言う。
そんなの理由になってない。だが、文句はとうとう言葉にならなかった。

「……小降りになってきましたね。そろそろ戻りましょうか」
「うん…」
朱塗りの太鼓橋を渡ってしまえば、そこで周遊は終わりとなる。
起点となった先程の鯉池の前には、ちょうど見学にはいった観光客の一団が賑やかに餌やりを楽しんでいた。
束の間の幻。
時雨と庭園に魅せられた呪縛が、日常を前にしてゆるやかに解けていく。

いまさらながらに血の上る頬を意識しながら、直江を追い越す勢いで高耶は駐車場へと歩き出す。
そこかしこに出来た水溜りに、白くちぎれた雲の浮ぶ青空が映っていた。




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紅葉狩りにはちょっと早かった某庭園でのほぼ実話(笑)





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