胸が締めつけられるほど、しあわせな夢をみていた。 目覚めたとたんに、零れてゆく。 胸のうちにほのかな温みの残滓だけを残して。 その切なさに歯噛みする日々もあった。 夢の中が幸福であればあるほど、生きなければならないその日一日がより辛くなるから。 儚いだけの優しい夢を見ることを、女々しいとさえ思っていたのだ。心弱い証だと。 でも、いまはちがう。 うたかたの夢は消えても、それは決して幻ではおわらない。 現実に確かに存在するぬくもりをもう自分は知っているから――― 寝室はおぼろな闇に包まれていた。 厚手だが遮光ではないカーテン地からわずかな光が染み出して、すでに夜が終わったことを告げている。 ───何時だろう? ぼんやりと目覚ましに眼をやって、ぎくりとした。 いつもの起床時間はとうに過ぎている。 慌てて飛び起きようとして、今日が休みだということに気がついた。 そして、節々にのこる鈍い痛みにも。 思わず苦笑が洩れた。 決して無体な真似をされたわけではない。 それでも、二人揃っての久し振りの休日にわけもなく心が浮き立ったのは本当で。 奔放に快楽を求めた代価がいま、身のうちに疼痛となってのこっている。 ───直江は? 感覚を研ぎ澄ますと、細くあけられていたドアの隙間から、かすかな珈琲の香りがした。 すでに起き出しているに違いない人影を探して、高耶はそろそろとベッドを離れた。 廊下に出るとさらに香りは鮮烈になった。その香りに誘われるようにリビングに入りかけて、高耶はとまる。低い話し声を耳に拾ったのだった。 マグを手にして、直江は電話の最中だった。眉をひそめ、なにやら難しそうな口調で話し込んでいる。 気づかれないうちに引っ込もうと思ったのだが、こんな時でも高耶の気配は敏感に察してしまうらしい。つっと直江が目線を上げた。 その顔がゆっくりと破願する。おはようの意をこめて。 高耶もはにかんだような笑みを浮かべると、静かに後ずさって廊下に戻った。 そのまま、風呂場へとむかう。 熱い湯に浸かって強張りをほぐしながら、電話の相手を考えた。 明らかに不満をにじませていた直江の声音。だが、丁重な言葉遣いは崩していない。彼がそんな風に接する相手を高耶は一人しか知らない。 彼の長兄であり、上司でもある照弘だ。 ───ひょっとして、急な仕事が入ったのかな? 別に予定を立てていたわけではないし、約束を交わしていたわけでもない。それでも、直江が不在と思うだけで、気持ちはどうしても沈んでしまう。 ───でも、しかたねーよな。あいつも好きでやるんじゃないんだから。 たとえどんな言葉を告げられようと笑顔で受け入れる覚悟を決めて、高耶は再びリビングへと向った。 ドアを開けた途端、先程とは別の香りに出迎えられた。バターの焦げる香ばしいにおい。まるでそれが合図とでもいうように今までおとなしかったおなかがぐぐっと鳴った。 「おはようございます。高耶さん」 狙ったようなタイミングでキッチンからあらわれた直江が、定位置に坐る高耶のまえに、朝食を盛りあわせたプレートを置く。 「……おはよう」 きつね色に焼けたホットサンド。食べやすいように二つに切られたきり口から、とろりとしたチーズとハムがのぞいている。添えられているのはちぎったレタスとプチトマト。そしてヨーグルトの小鉢と大振りのスープボウル。 「待っててくれたのか?先に食べてて良かったのに」 「せっかくのブランチを味気なくひとりでですか?」 見合わせる視線はボウルから立ちのぼる湯気で白くぼやける。 その湯気の運ぶ優しい香りに、ふと、高耶が視線を戻して呟いた。 「あれ?……これ、『残り物のスープ』?」 高耶の言葉に、笑いながら直江が頷いた。 「いつかあなたの云っていたのを思い出して……。けっこう上手く出来たでしょう?」 「ほんとだ……」 勧められるより先に口に運んでいた高耶の顔がほころぶ。 「うまいよ。これ……。残りもんなんていったらバチがあたりそうだな」 悪気はないのだが身も蓋もない言い方に、直江は控えめなフォローを試みる。 「……スープなんて元来そういうものですけど。でも向こうでは一般的な家庭料理で、きちんとした名前もあるらしいですよ?その……国によって言い方はまちまちですが」 「……ふうん。そうなんだ」 そう云ってほんの少し遠い目をした。 さいの目に切った野菜のいっぱい入ったこの具沢山の野菜スープは、昔、高耶が『発明』した料理だった。 慣れない家事を四苦八苦しながら美弥と二人こなしていた頃、美弥が家庭科の宿題プリントに半泣きになりながら帰って来たことがあった。 そこには、一日に食べた料理とその材料を食品群ごとにまとめなさいという内容と、目安としては三十種以上が望ましいという添え書きがついていた。 普通の家庭ならともかく、自分たちにその条件はあまりにも酷だった。だが負けん気の強い高耶はとにかく三十種類をクリアすればいいのだろうとばかり、野菜籠の野菜をありったけ刻み、 冷蔵庫に残っていたベーコンと一緒にスープにしてしまったのだった。 「若かったよな」 今だってたいした年齢ではないくせに妙に年寄り臭いことを云う。 「……あの頃はとにかく美弥に肩身の狭い思いをさせたくなかった。ただでさえいろいろあったから……」 問わず語りに語る高耶の話を直江はただ黙って聞いている。 苦肉の策だったこのスープは、結果としてバランスの取れた食事のお手本としてクラスで発表されることとなり、学級通信にレシピまで載ってしまった。それを持ち帰ったときの得意げな美弥の顔は今もはっきりと憶えている。 目を伏せて、とろけかけたジャガイモを頬張った。クセのあるセロリもニンジンも柔らかく煮えていてするりとのどを通ってしまう。 あの頃でも充分美味しく思えた野菜スープは、吟味された材料と丁寧な調理をされてまた格別な味わいだった。 つい、お代わりを所望する。 気軽に立ち上がる直江の広い背中を呆けたようにぼんやりと追いかける。 湯気の立ち込める食卓でのなごやかなひととき。 夢のような時間をこんなふうに誰かと過ごせる日が来るなんて、おもいもしなかった。ましてや、その誰かがおまえだなんて……。 「高耶さん?」 直江の声にはっとした高耶が、取り繕うように話題を変えた。 「そういえば。電話。おにいさんからだったんだろ?急用?」 それまで黙り込んだ高耶を見守るように微笑んでいた直江が困ったように眉根を寄せる。 「急ぎの書類を頼まれてしまいました。……すみません。せっかくのお休みなのに」 「オレのことなら気にしなくていいから。特に出かける用事もないし。で、いいのか?こんなにのんびりしてて?」 慌てて残りを掻きこみ、急かすように腰を浮かせた高耶を直江が留める。 「ああ、在宅でいいんです。形式を整えて兄あてに送信すればすみますから」 「なら、さっさと取り掛かれよ。わざわざおまえに頼むぐらいだから、早いほうがいいんだろ?」 すとんと腰を落として、気が抜けたように高耶が云った。一人で留守番する気でいたからなおさらだった。口調が少々尖がっているのは内心の嬉しさを押し隠すためだ。 「おや、手厳しいですね。そんなに私に仕事させたいんですか?」 「なにぐだぐだ云ってんだよ。ほれっ!しっしっ……」 バタバタと書斎に追いやろうとする高耶に直江が拗ねて見せる。 「夕方までには済ませます。時間外手当はしっかりとせしめますから外で食事しましょう」 「……ん。じゃ、後片付けはオレがする」 そう云うなり高耶はてきぱきと食器を重ねはじめた。おまえはさっさと仕事しろとばかりの仕種に直江が肩をすくめて渋々と書斎にこもろうとした時、 「直江」 ふいに高耶が呼び止めた。 「はい?」 「朝メシ…すごくおいしかった。ありがとな。……こんなどうでもいいこと憶えていてくれて」 モノやカタチだけではない。 直江は時々こんなふうに魔法のように優しい思いを高耶にくれる。 いつも見守られている──そんな安心感を。高耶本人でさえ欲しているとは気づかないでいたものを、慈雨のように惜しみなく降り注ぐ。 それが何よりも嬉しいのだ。今はまだぎこちない態度でしか表せないけれど─── 「……どういたしまして」 背中を向けたまま、猛然とテーブルの上を拭き始めた高耶に微笑みかけると、直江はそれ以上は何も云わずにそっとリビングを後にした。 |