静かになった部屋。リビングルームは明りを落とし、キッチンからもれる光と外光とがぼんやりとそこにあるものの形を浮かび上がらせている。 「あんまりいじめないのよ」 泊まっていくと思ったのに、綾子と千秋は彼女の笑うようなささやきを残して帰っていった。 不本意な言われ方だ。 最後のグラスを水切り籠に伏せながら、義明は口をとがらせた。 いじめた覚えなんてないぞ。 タオルで手を拭い、リビングを振り返る。 この部屋の中心である、大きなL字型のソファの一辺に横たわるひと。少しせわしい寝息。 義明は静かに近づき、のぞきこむ。薄明かりの中でも、まだ頬が上気しているのがわかる。 うすく開いた口元からアルコールの匂い。 ほんとに日本酒がダメなんだ。 もちろんとっくにオトナなんだから、本人もそんなことは百も承知だろうに、 千秋が嫌がらせに持ってきた大吟醸をグラスであおるなんて。 自業自得っていうと思うんだけど。 しかし、まあ。 義明は上体を起こして、カーテンを開いたままのバルコニー側の窓を眺め、月光の当たる掛け時計へと視線を移した。 もうすぐ日が替わる。 昨夜のこの時間は――22日のうちにレポートの下調べを終らせておこうと必死だったのに。 時計の針を見つめる目が険しくなる。 あのメモ・メールをノート・パソに送れば完了だったのに。 不意打ちをくらって、手がすべり――。 義明は、うう、と唸り、腕を組んだ。 あなたが悪い。 口をきいてやんない、んじゃなくて、口をきく気になれなかっただけだ。 やった作業を全部遡り、資料をもう一度洗い直し、引用部分を捜して。 二時間しか寝られなかったけど、ちゃんと祝宴の支度はしたし、ケーキも取りに行ったし、 料理も給仕もしたし、後片付けだって完璧だ。 ……プレゼントはテーブルの端に置いといたけどさ。 何だか嬉しそうな顔して読んでた新聞の連載記事「新・世界と日本のわんこ」。 一冊にまとめられて出版されないかな、とあれこれ調べてたら、七年前にそれの前身にあたる「世界と日本のわんこ」 っていうのが出てるのがわかった。 「版元・品切れ」で、ネット古書店もあたったけど空振り。神田の動物の本の専門店で見つけて、ほっとした。 情報が古くなってたり、新しい犬種が載ってないのは勘弁してもらうしかないよなぁ、と思いながら、一応包装して。 目を丸くして。大きく笑って「ありがとう」と言ってくれたんだけど、丁度眠気の波に襲われていて、 笑い返す気になれなくて、ども、と頭をさげた。 ああ。 義明は高耶の寝顔に目を落とした。 そのあとか、コップ酒。 ソファの背に右手をつき、義明は再び酔っ払いをのぞきこんだ。 伸びやかな猫科の獣に似た男。誇り高く優雅で高慢。真実を見抜く厳しい目を持ちながら――小鳥のように繊細。 扱いにくいったらありゃしない。 だいぶ落着いたかな、と唇に左手をかざすと、まだ熱い息。ん、と高耶が喉をそらし、 首を振ったので、義明の左の親指の下に唇が触れた。ぞくりと血が沸き立った。 あっ……、と気づいた時には、もう彼の左耳の下に口づけていた。熱くて、うっすら汗ばんだ肌。 少し強く吸うと、声なくこぼれた息の音が甘くて。 そのまま喉元へと唇を滑らせた。楽になるようにとはずしていたシャツのボタンの数は三つ。 胸骨の形、鎖骨の上のくぼみ。舌先で確かめると、彼の肩が小さく跳ねた。 熱い身体。胸と胸の間。速い鼓動。 どちらの? 義明は目を見張って息を止めた。 そのまま、ゆっくりと身をひいてソファの脇に座りこむ。 限界まで息を止めて。ぷはぁ、と解放。 大きく三回深呼吸。うわぁ、と熱い頬を両手で押えた。 …………まじ、ヤバくね? 了('09.8.1) |