彼の川・彼女たちのリラ




1.

「光秀が手綱を握るなら、むしろ好都合だ」
 今年の夏は冷夏と言われるほど涼しいが、それでも京都の夜は蒸す。
 高耶は長袖のダンガリーシャツに、スリムジーンズ、黒のバスケットシューズといういでたちだ。ラフなスタイルだが、年齢に見合う形で御している。
「あの男なら、一向宗の暴走を防いで『打倒・信長』の共闘に鼻づらを向けさせられるだろう」
「…問題はその織田だな。妙に音無しなのは何なんだ」
どこぞのバカダンナか、と言われても一向に気にせず、豪華な作りの扇子で、ぱたぱたとアロハシャツの襟元へ風を送りながら、千秋は欠伸を噛みころす。
「…何か目論んではいるんだろうが…。一番知りたいのは、信長が今どういう形で存在しているか、だ」
京都の街は、本当にすっきりとした碁盤の目の形で構成されていて、見通しがいい。この道の先には、二条城。ライトアップの奥の深い暗さが、その所在を示している。
 高耶は声を低くした。
「オレは…直江のおかげで痛手は少なかったが、奴にはそれなりの調伏力をぶつけたと思っている」
 もの思わしげにつぶやきつつ、高耶は右手に現れた曲がり角で立ち止まった。
 そこから半ブロック先に、柔らかい明かりをこぼす品格あるホテルが見える。
 ゆっくりとそのホテルを見上げた高耶が優しく微笑んだのを、千秋は見逃さなかった。
 けっ、と喉の奥の奥で笑いつつも、千秋ははずむような高耶の足取りに歩調を合わせた。

 京都駅から少し離れてはいるが、大手航空会社系列のこのホテルは、他国からの観光、商用の客も多く、夜になってもにぎやかで人の出入りが絶えない。
 車寄せのある正面玄関が見えたところで、千秋が足を止めた。
「何、浮かれてんだ、大将」
 高耶も足を止める。
「夏期の補習があるって渋ってるやつを、何とかこの麗しの古都に誘い出せたことが、そーんなに嬉しいか」
 高耶がちらりと肩越しに見やる。千秋は、はあ〜あ、とまた扇子をばたつかせた。
「ありがたいことに、一向宗も明智派もここんとこ実に理性的――怨霊のくせに――で、ドンパチもなかったしィ。
 もーう、あ・と・は♪かよ」
 肩をすくめて、背を向けた高耶に、意地の悪い声がぶつかる。
「カワイイ子犬ちゃんだって、言ったんだって?」
 ぎょっとして振り向いた彼に、千秋は眼鏡を押し上げるしぐさで答えた。
「晴家は地獄耳〜♪
 白いキレイな土佐犬だって言ったんだろ、兄ちゃんに」
「紀州犬だ!!
 あんな○○○なのに、例えたりするか!!」
 間髪を入れぬ猛烈な反論に、千秋はぶはっと身をよじった。ひいひいと声が出ないほどの笑いの発作は久しぶりだ。
 高耶はまっかになって、無礼な連れを置き去りにしようとした。
「…いつまで、そうしてるつもりだ?」
 静かな声に空気が変わり、高耶を引き止める。
「あいつをどうするんだ?」
 高耶は身体ごと振り返り、千秋と相対した。
「今んとこ、あいつは『直江』じゃないし、『直江』に戻れるかどうかもわからない。晴家の見ている魂のダメージも、はっきり数値のようにつかめるわけじゃない。
 今、この時、『橘義明』でいる分には問題ないだろうが、お前はそこから手を引いて、ひっぱりだしかけて…中途半端だ」
 千秋はきつい目で高耶を見ていたが、ふと肩の力を抜いて、扇子を閉じた。
「あいつが可愛いのはわかる。不本意ながらな。
 教師の目なんて経験するんじゃなかったぜ。
 そこに立って見ると、あいつが学ぶことを喜びとする最高の生徒だってことがわかるんだ。
 直江ってのは、こんなやつだったのか、ってただ驚く」
 高耶は軽く眉を寄せて聞いている。
「…すっごく楽しそうなんだ。
 県下ナンバーワン高だ。水準は高いし、皆、それぞれに貪欲だ。
 でも、あいつほど知識に対して、謙虚でまっすぐな奴はいない。
 どの学問に対してもそうなんだ。
 そんな生徒が教師にとって、どれだけ気持ちのいいものか…。俺としては、こんな視点欲しくなかったぜ」
 千秋は閉じた扇子を、ぱし、と左の掌に打ちつけた。
「あれは直江だ、千秋」
 鋼のような声に、千秋はぐっと眉をひそめる。
「直江なんだ。だからオレの傍に来る。
 必ず」
 冷たく硬い響きの――確信をこめて、高耶は言い切り、踵を返す。
 千秋はその後姿をしばし見ていたが、
「…だといいがな」
 と、吐き捨てるようにつぶやいて、後を追った。


2.

 和装の女性従業員がきびきびと立ち働く(しかし彼女らが、お客の巨大な旅行バッグをほいっと肩にかけ、手に二つボストンバッグをぶらさげて、どうぞ、とにこやかに言うのは、 すでにショーの域だ)フロント周辺、広いロビーの正面奥にある数基のエレベーターの方からやってくる、白い長袖のシャツ――彼はいわゆる「学生シャツ」が好きで、日常でもそれを着ている――に、細身のブラックジーンズの、爽やかな少年の姿が目に入り、高耶は深く笑った。
 まったく無防備だったのだろう。
 その華やかな色と香りのかたまりが、右側から自分の胸に飛びこんでくるまで、ぜんぜん気づいていなかったのだから。
「タカヤ!!」
 彼女の明るいメゾソプラノは、八年前と同じだった。
 いや、もっと華麗な響きになったかもしれない。
 見事な赤銅色の長い髪は、天然のウェーブで豪華に波打ち、彼の視界を奪った。
 再会の喜びに大きく抱きついてきた豊かな身体を受け止めるため、彼はぐっと重心を落とし、両腕で彼女を包む格好になった。
「高耶、高耶!! まあ、どうしてこんなとこで!! 嘘みたい!!」
 美しい――灰色を帯びた緑の瞳と雪白の肌。
 そして完璧な形状の鼻の線の下、少し沈んだ深い紅の唇が彼の口をおおった。

 懐かしい――と言っていいほど、知っていた唇。口腔とぴったり押しあてられた豊かな肉体の熱、その存在感。
 時間軸の混乱。
 だが――。
 高耶は、はっとして彼女の肩を押えて唇を離し、エレベーターの方を見た。

 彼を微笑ませた少年の姿は、そこになかった。


3.

 気持ちが悪い。

 義明は何とかルームキーを差しこんで部屋へ転がりこんだが、キーを抜くこともできずにバスルームへ駆けこんだ。
 トイレのまえで崩れ、膝をつき、えずいたが何も出てこない。
 そうだ、昼を食べそこねていたっけ、と頭の片すみで思ったが、そんなことではこの突然の恐慌状態はおさまらなかった。

 ホテルに入ってきた高耶がこちらを認めた、と思った瞬間、彼を抱きしめた人。

 彼の黒い髪の下を、かいくぐるようにひらめいた白い腕。
 白い手、豊かな長い髪。

 足元がぐらりと揺れたようだった。

 見事な曲線美を若草色のタイトなドレスに包んだ異国の女性。

 赤銅色の髪の向こうで、白い腕が彼の首に回されて。
 紅い唇が。

 胸がつかえて。
 息ができず。

 見たくない
 遠ざかりたい
 目にした光景から

(オノレノ ブザマサカラ)

 きつい声が心の一番奥で、
 刃をきらめかせて深く切りこんだ。

(見セナイデ)
(ソレデモ言ウノカ?
 オマエナラ信ジラレル ト)

 白い腕
 長い髪
 紅い唇

 おびえ見開かれた瞳
「アナタハ――」
 言うな
「ソンナヒトジャナイハズ」

(オ前ニナンカ
 ワカラナイ)

 だれか。
 誰か、助けて。

 義明は浴槽の冷たいふちに、額と頬をすりよせた。
 あふれてくる涙で頭部がすべり、シャワーカーテンをつかんだが、そのまま前のめりで浴槽に肩から上を投げこむ形で倒れこんだ。

 息ができない。

 ――彼を抱く聖母マリア…。
   ああ、誰も罪人を救いはしないのだ。
   罪へ踏みこんだ者など誰も。



 ドアが開いている。
 キーは差しこんだまま。

 踏みこんですぐ右にクローゼットと冷蔵庫のあるくぼみ。
 奥のベッドのあたりには、人影はない。
 でも。

 高耶は、はっとして、左側のバスルームの明りを点けた。
 奥の浴槽にのめりこむ形で、義明が膝をついていた。
「直江!?」
 隣りにひざまずき、崩れた身体を左腕の上に返した。少年の震える白い顔に、身体中の血がひく。
「直江、おい!?」
 肩を揺すると、かくかくと頭部が振れて、喉がさらされる。
「……う…っ…」
 噛みしめた唇も色がない。
「直江…直江、おい、息を吸え!!」
 高耶はのけぞった下顎をつかんで、口を開かせようと躍起になった。嫌な汗が身体中を舐める。
「頼む、口をあけてくれ!! 直江!!」
 指先に力をこめて下顎を砕くほどの力で、ようやく少年の歯をゆるめ、口を開かせる。急に流れこもうとした空気に、義明の喉と胸が痙攣し、激しく咳きこむ。
「ちが…っが……」
 かすれた声を混ぜて、咳がバスルームに反響する。高耶は腕をずらして彼の首を支え、抱きこんで背を叩く。
「ちがう…ちがうんだ…」
 少年の嗄れた声と荒い息。
「でっ…も……でも、もう…」
 固く閉じたまぶたの下から流れる、熱いしずく。
「も………う…」
 唇が弱々しく動き、咳が収まってきた。
 タ、エ、と口が動いて、すすりあげるような音に呑みこまれる。
 高耶は呆けたように胸元の少年を見おろし、腕に捉え直した。
 強く抱く。

 汗のにおい、陽光の匂い……涙の匂い…。
 熱い身体、その鼓動。

(やっと…見つけたものなんだ。
 直江直江……直江…)

 声なく名を呼び続けた。


 熱くて強い…誰か。
(助けて…)
 呼んだ声に応えてくれた…。
 これはあるはずのない幸せ。
 あのひとが俺を許してくれるはずがない。

『おまえだけは』

 助けてくれるはずがない。

『おまえだけは、決して』

 …リラの香りがする
 ――英語ならライラック
 銀髪の小さな老婦人
 ――でもやっぱり『リラ』の方が可愛くない?
 母語を教えながら微笑む 異国で咲く小さな花のような人
 幼いとき 母親に通わせられたフランス語の私塾
 あの言葉とそれを教えてくれる老婦人は好きだった
 ことのほか寒さの厳しかった年のクリスマスに
 懐かしい故国ではなく 天上へと旅立ってしまったけれど
 …あの先生の香水と同じ香りだ

 でももっと強い。
 もっと強くて…ほかの…。
 若い女性の周囲に漂う化粧品の匂いが…。

 びくりと身を震わせて、義明は間近にある高耶の顔を見上げた。
 彼から香るのだ。
 この、リラをベースにした若い女性の匂い。

 耐えられない。

 突然、胸を突き離された高耶は、それでも義明の肩はつかんだまま驚きに目を見張る。
 見開かれた相手の瞳に恐怖に似たものを見いだして、その衝撃で手がゆるんだ。
 激しい抵抗で更に跳ねのけられて、呆然とする。
 義明は息を荒げ目尻に涙を残したまま、バスルームの床を後ずさり、ドアにすがるように立ち上がった。
 眉を寄せ、苦しげな目を高耶に当てたまま、彼はぐっと唇を噛み、身を翻した。
「……!!」
 立とうとして動いた時、高耶は自分の周囲の空気のゆらぎで、胸や首に残っていた別の人間の香りに気づいた。
 あ、と思わず息を詰める。
「……直江!!」
 ドアを出て左右を見たが、もう少年の姿はない。
 どちらへ走ろうかとたたらを踏んだところで、エレベーターホールに通じる角から、一人の女性が現れた。
 赤銅色の髪の丈高い彼女は、灰緑色の瞳を大きく見開き、高耶に近づいた。
「…さっき気もそぞろだったのは、あの子のせいなの?」
「エレン」
 高耶はかすれた声で、相手の名を呼んだ。
「あいつ、どっちに行った!?」
 彼女は、おやまあと首を振った。
「…驚いた。あなた、男の子が好きな性質たちだったの?」
 煽るような口ぶりに、高耶が目を険しくする。その目元に白い指を伸ばし、彼女はいぶかしげに彼を見上げた。
「男だから、じゃない」
 高耶は苦しげにささやいた。
「あいつだから、なんだ」
 エレンはじっと彼を見つめていたが、不意に甘く笑った。
「『あと』の顔ね」
 え?と揺れた高耶の首筋に、彼女の両腕がまわる。
 唇が耳元へ近づき、なめらかな秘密めいたささやきを注ぎこむ。
「ベッドでは情熱的なのに、そのあと、は、いつも苦い顔してたわ。
 そんなによくなかったの、って、怒って聞いたこともあった。
 覚えてないの?」
 高耶は眉をひそめ、床に目を落とした。
「不思議だったの。
 もっと夢中になってもいい年頃だったじゃない。いつもいつも苦しそうな顔で、服を着て出て行く。
 だから離したくないって思ったのよね」
 エレンは小さく息をついた。
「…素敵な大人の男になったわ。あたしの目は確かよね」
 彼女は軽く身を引いたが、それは高耶の両肩をとらえて、正面から向き合うためだった。
「ほんと素敵になったわよ、あなた。
 なのに、思ってるのはあの子だけ?」
 唇は甘く笑う。
「もう少し余裕があってもいいんじゃない?」
 高耶が顔を歪めたので、エレンの微笑が消えた。
「…もう、しくじりたくないんだ」
 か細い悲痛なつぶやきに、彼女が真剣な表情になる。
「二度と失くせないんだ」

「ちょっと、直江がすごい顔で…」
 肩の後ろに目をやったまま、ドア口まで来た綾子は、二人の姿に一瞬絶句したが、すぐにすさまじい不快感を露わにした。
「あんた、エレン・テレーズ・ルウェリー!?」
 彼女の後ろから、知ってんのか、といぶかしそうな声がした。伸び上がるように覗きこむ千秋の目は、長身の女性に釘付けである。
「忘れるわけないじゃない!」
 綾子は怒気をむきだしにして、相手を指さした。
「このオンナ、あたしがこいつ(ちらっと指先が高耶にそれて、また戻る)と一緒だった時、上から下までじろーっと見てから、鼻で笑ったのよ!?」
 エレンがああ、と肩をすくめた。
「あの時の中学生のちびちゃん? あら、育ったじゃない」
 つらっと言いながら投げられた目に、綾子はまた燃え上がった。
 彼女はぐっと目を細めて、高耶に目を転じた。
「…それでなのね、あの子があんな顔でホテル出てったの。
 景虎、あんたどういうつもりよ。
 美奈子ん時の繰り返しをやる気なの!?」
「晴家っ!!」
 千秋の叱声に、綾子はわずかに逡巡の色を見せたが、声はより冷たくなった。
「図太かった『直江』でさえ耐え切れなかったのに、あの子が大丈夫なはずないでしょ!?
 あんた、ほんとはあの子を壊したいの??
 そんなに『直江』が憎いの!?」
 激しい言葉のあとの凍りついた沈黙の中、高耶が動いた。
 思わず身構えた綾子の肩を、ひどく優しく押しやって、彼は廊下へ出ていった。
 




続く





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