彼の川・彼女たちのリラ




4.

 あれ…と義明は顔を上げた。
 いつのまにか、川のそばに来ていた。
 無意識なのかな、とぼんやり思う。
 考え事をする時、ぼうっとしたい時、川の方へ向かうのは。
 でもここは女鳥羽川じゃないんだなぁ、と呆けたようにつぶやく。

 ――どうしてこんなところにいるんだろう。
   なんでいつもの生活をしていないんだろう。
   勉強が苦になったことは一度もない。
   何もかもが未成熟な自分の栄養で、独り立ちを果たすための手段だ。
   俺はこれまでの俺に不満を持ったことはない。
   可愛がってくれた祖母が逝った時は、弟と泣いたが、高齢と病とが来るべき時に備えての心の用意はさせてくれた。
   しかたない。人生はこうして終るのだ、と。

   ああ、譲が霊を引き寄せやすくて、トラブルに出会うことには心を痛めたが、彼はしっかりしている。わずかでも手を貸せるなら、と思いはしたが…。

   なぜ、こんなところにいるんだろう。
   俺はちっぽけで何もできないつまらない高校生にすぎない。

 さすがの観光地、京都でも、夜の川辺には人の気配は薄かった。
 義明はぼんやりと、川面近くの遊歩道まで降りた。

 ――人を超えた力なんてない。
   人でしかない。
   彼、が何と言おうと。

 目をそらしている方へと、心が向かう。

 ――彼、が。

 義明はうなだれて、唇を噛んだ。

 ――関係ない、関係ないんだ。
   彼は自分よりずっと年上で、とっくに大人だ。
   人目もはばからずキスを交わす恋人がいたって、おかしくない。
   その人とここで会う約束をしてたって、おかしくない。
   何も不自然なことはないんだ。
   不自然なのは――
   自分のこの内部のほうなのだ。

 暗い川面を見つめていたから、その人物が自分のすぐ近くに来るまで、義明は気づかなかった。
「相変わらずだな」
 皮肉げな、きん、と張った弦のような声に、少年は我に帰った。
 はっと振り向くと、降りてきた階段を背に、一人の男が立っていた。
 男…だよな?と義明は、ちょっと首をかしげた。
 背は高いが、シルエットは細い。夜目にも明るい白いジャケットだが、インナー、ボトムスは黒なので夜に溶ける。少し長めで肩に届くつややかな髪も。
 整っているというより、性別で分けられない異界の生き物のような美貌。妖かし、というのは、これだろうか。
「また繰り返しているとみえる」
 足音もなく近づいてくる相手の紅い唇に、義明は顔をしかめた。
「進歩のない二人だ」
 揶揄する口調に、少年はぶっきらぼうに聞き返す。
「あんたは?」
「忘れているのか。つれないな」
 直江、と呼ばれた。微笑みながら。
(『なんかめっちゃムカツク〜』)
 記憶の中の森野が、代弁してくれた。
 義明は、ふーうっと大きく息をついた。
「そういう名には…」
 心当たりが…と言いかけて、ぎょっとする。男の指がするりと顎の下に入って、くいっと持ち上げたのだ。
「なに…」
「またずいぶん可愛らしい姿になっているものだな」
 相手の目がにいっと細まる。
「尾張のうつけ殿の好みそうな」
「へ?」
 不本意ながら、相当な間抜け顔になったらしい。
 相手がくっと吹き出し、更に顎を上げさせた。
「その様子では『獲物』になったことはないと見える」
 皮肉っぽさが少し薄れた。
「あの女のことは気にするな。
 ああいう狩人はいるものだ。傷を負ってよろよろしているものがいれば狩らずにはいられない。そういう人間が。
 形はいろいろだが」
 義明はますます困惑した。
 この、人ではないもの、のような…、けれど妙な人間くささものぞかせる男は何なのだろう。
「目的も…あの女は『再生』を促したい型で、うつけ殿はとどめを刺したい型だ。景虎には…必要だったのだろうよ、その処方が」
(必要)
 普通に使う、よくある言葉なのに。
 光の消えた少年の目がそらされると、男の指はあやすように彼の顎を揺らし、自分の方を向かせた。
「別の意味にとるな」
 優しげとさえ聞こえる。
「男の身体はどうしようもないものだからな」
 空いていた側の男の手が、ひゅっと宙を舞い、ぶつかってきた紅の閃光を叩き落とした。
「見境のない…。
 お大事が怪我をするぞ」
 妖美な男の表情が一変した。痛烈な嘲笑を浮かべ、彼は土手を見上げる。
 まさに怒髪天を衝くという勢いの形相で、高耶が立っていた。
「離れろ」
 短いひとことに、すさまじい怒気がこもる。
 妖艶な笑みで男は視線を流し、義明の右頬にすいと唇を寄せた。

「へろへろついていくな!!
 あいつが誰かわかってんのか!?」
(は? へ?)
 どうやら義明の思考はショートしたらしい。
 あわててまばたきすると、まっかになって怒っている高耶の顔が目の前にあった。
 いや、それは違う、と正しにかかる。
「ついていってなんかいません。あっちが来た…」
「同じだ!! 少しは警戒しろ!! おまえは昔のアニメの紅一点か!?」
「昔の………? 
……世代が違うので……」
「ああ、もう!!」
 高耶は頭をかきむしった。
「あいつは高坂弾正!
 この前の信玄復活の首謀者だ」
「あの時の??」
 ショートのあと、少しズレていた義明の思考回路が、やっとまともにつながる。
「譲を狙った!? なぜこんなところに??」
 周囲を見回す彼に、高耶は溜息をついた。
「とっくに逃げた」
 不機嫌に義明を見る。
「…なに、おもちゃになってんだよ」
 低い怒りのこもった声に、義明はむっと口を結んだ。
「帰るぞ」
 言い捨てるような高耶の言葉に、ぐっと手を握りしめる。
「…どうぞ」
 踵を返しかけていた高耶が、きっと振り返る。
「すねるなよ」
「すねてなんかいません」
 義明自身が驚くほど、冷たく硬い声だった。
 高耶は怒りの熱をみなぎらせて口を開いたが、不意に目をそらし、疲れたようにつぶやいた。
「一人にしておきたくない」
 一人でいたい。
 けれどそれは口には出せず、諦めた義明は、歩きだした高耶のあとを、悄然とした足取りでついて行った。


5.

 ホテルのガラスの扉が、両脇に開く。
 同時に視界いっぱいに――あの輝く赤銅色と、振り向いた華やかな笑顔が広がった。
 ぐっと立ちすくんだ義明は、半歩先にいる高耶の背にも、びしっと緊張が奔ったことに気づいたが、それはすぐに次の驚きに呑みこまれてしまった。
 この女性は自分と同じぐらいの背丈だ。
 それがわかったのは、あの彼女らしく変化したリラの香りとともに、彼女が義明を抱きしめたからだった。
「お帰り!!」
 はい…?と少年の口が動いた。
 彼女はちょっと上体をそらして、彼の顔を両手で包んだ。間近できらきら輝く灰緑色の瞳に見つめられて、義明の心臓はどんと跳ねた。ばっと紅潮した頬の熱に、彼女があでやかに笑った。
「うーん、もっと早く会えてたらねえ!!」
 はぁ?と、今度こそ義明の口が、かくんと開く。
 と、ぐい、と凄い力で、左肩を後ろへ引かれる。
「こいつは駄目だ! エレン!!」
 上ずり、度を失った高耶の声が耳元で爆発した。バランスを立て直そうとした義明が上体を傾けると、首筋に彼女の頬が触れた。
「彼のこと、知りたい?」
 小さいが、はっきりした声だった。
「明朝の六時に、カフェのガーデン席で会いましょう」
「どいてよ、エレン・テレーズ・ルウェリー」
 正面から、ドスの効いた女の声。これは義明もよく知っているが…。
「なに、ふらついてんの」
 リラの香りのかたまりは去り、見慣れた黒髪・ボブの若い女性が、真向かいで腰に手をあて、仁王立ちしている。
 しかし突然、綾子は慈悲に満ちた優しい表情になり、義明の両手をとった。
「無事でよかったわ。アヤシイのにさらわれかけたんだって??」
 おねえちゃん、心配しちゃったよー、と頭をなでられて、また彼の思考は凍結しそうになる。
「さあ、もう寝ようね、よっちゃん」
 よっちゃん、って…誰!??
「おい!!」
 あわてた高耶のさしだした手を、右手でぱし、と捉えた綾子は、器用な指使いで、彼の小指と薬指をありえない方向へそらした。
「いっ、うっ、あっ!!」
「心配すんな、喰ったりしない」
 笑顔を『よっちゃん』に向けたまま、冷たい声で彼女は続ける。
「長秀、大将あずかっといて。騒ぐとホテルに余計な金を払う破目になるからね」
 へーい、と脱力した声が応え、高耶の抗議の声が離れた。
「さあ、おねえちゃんと部屋に帰ろーねー」
 義明はショートしたがる脳に逆らうのをやめた。
 もういいや、どうでも。

 先にシャワーしなさい、と浴衣一式とともにバスルームに押しこまれ、機械的に用を済ませた義明に、あんたは内側のベッド、と言い渡して綾子は腕を組んだ。
「エレン・テレーズは何て?」
 義明はぱちぱちとまばたきして――ようやく思考を取り戻した。
「…それがあの人の名前?」
「エレン・テレーズ・ルウェリー。
 何て言ったのよ、あの女」
 義明はベッドに腰を落として、ぼそりと言った。
「朝六時にカフェのガーデン席に来るように」
「一階の中庭ね。ふーん」
 綾子は軽く首を傾けた。
「知りたいなら行っといで。いろいろカンにさわる女だけど、嘘は言わない」
 寝なさい、と短く言って、彼女はバスルームに消えた。

(知りたい…?)
 上掛けをはいだベッドに潜りこみながら、義明は思った。
(知るって…何を?
 …例えば、今、このとき…。
 ……彼とあのひとが……)
 義明はぐっと目を閉じた。
(そんなことが知りたいのか、俺は?)




戻る/続く





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