アレクサンドラの杯


遠くで雨の音がする。
そういえば喉が渇いたな……夢の中でぼんやりと高耶は考える。 それとも、水が飲みたくてこんな雨の夢なんか見るのだろうか?
柔らかな雨音はうつつの中で高く低く心地よく響き、深い眠りに誘おうとする。

不意にあまい水の匂いを感じて眼を開けた。
鼻先に大振りのコップが差し出されている。無意識に手を伸ばして一息に干した。残された氷が、からからと澄んだ音をたてる。
その音に今度こそ目が覚めた。

直江が覗き込んでいた。その髪からはまだ水の雫が滴っている。
カーテン越しの陽射しが眩しい。
雨じゃなくてシャワーの音だったんだ……夢の正体に思い当たった、そんな他愛もないことが嬉しい。笑いかけようとしてその笑顔が中途半端に凍りついた。
頭の芯が酷く重い。喉の渇きが癒されてしまうと、次はこっちの番だとばかりにずきずきと脈打っている。
「大丈夫ですか?つらくない?」
高耶の手からコップを受け取りながら、直江が訊ねた。
「ん…あたま痛い……」
身体を起こそうとして、節々に残るだるさに気づいた。と、内側に鈍痛が走って、呼吸がとまる。
「―――っ!」
ようやく昨夜のことを思い出し、言葉の意味を悟って顔が真っ赤になった。
まともになんて見返せない。思わずそっぽを向いてしまう。出来ることなら再び布団に潜り込んで狸寝入りをしたいくらいだったが、もう手遅れだ。
耳まで赤い高耶の惑乱ぶりを察したか、穏やかな直江の声がした。
「廊下の右側が風呂場です。お湯は張ってありますから。あとは…キッチンで朝食にしましょう。美味しい珈琲をご馳走しますよ」
努めて事務的に告げてそのまま静かに部屋を出る。
パタンとドアの閉まる音に、ようやくそれまで詰めていた息を吐いた。
吐息とともにどっと脱力してしまって、暫く高耶は呆然としたまま動けなかった。

酔ってはいたが、記憶がなくなるほどではない。昨夜の出来事は逐一思い起こすことができる。
……つまり、自分は、直江と、その、あの………!!!
わけもなく叫びだしたくなった。
……オトコなのに、直江だって自分だって男なのに、なんで、あんなことに?
頭を抱えようとして、不意に、自分が見慣れぬパジャマを着ているのに気づいた。自分で着た覚えはないのだから、当然着せられたのだ。あの男に。……あの行為の後で。
突然、はっと思い当たって、パジャマの下の肌をまさぐる。
……何度か放ったはずの痕跡はきれいに拭われていた。
「………」
オンナのように抱かれたうえ、その後始末までさせていた?……顔から火を噴く思いだった。
目の眩むような快感の後の記憶の糸は途切れている。昇天させられて意識をなくした無防備な身体を直江の目に曝していたなんて、 そのうえ赤ん坊のようにされるままに全身隈なく清められていたなんて、考えたら自分の意思で身体を繋げること以上に恥ずかしいかもしれない。
……どんな顔してあいつに会えばいいんだ?直江はどんな風に自分に接してくるのだろう?気まずくなったりしないだろうか?あいつは後悔してないのか?

気分はまるでジェットコースターだった。赤くなったり青くなったり慌しいことこのうえない。
それでも。
「風呂……入るか」
あとのことはそれからだ。 自分に言い聞かせるように、ぼそりと呟いて、高耶はそろそろとベッドを抜け出した。
疼くような痛みはあるがまったく歩けないほどではない。温めればたぶんもっと楽になるはずだ。 そしてなによりも、例え必要はないとしても自らのけじめとして、昨夜の名残をきちんと洗い落としてしまいたかった。


シャワーを浴びて、バスタブに身を沈める。
お湯には乳白色の浴用剤が溶かしこんであった。
ミルク色のそのお湯に顎まで浸かってため息をつく。ようやく人心地がついて、バスタブの縁に頭を預け眼を閉じた。
そして改めて直江のことを考える。
あんなに意地悪く抱いたくせに、その後のこの気遣いはなんだろう?
夢の中の水音はずいぶん長かったような気がするから、たぶん直江はシャワーだけで済ませたのだ。バスタブのお湯は、わざわざ高耶のためだけに張ったことになる。
しかも、と考えて急に高耶は赤面した。 居たたまれなくて顔を半分お湯に沈めてしまう。

羽織ったパジャマを脱いだ時、鏡に映る自分の姿に唖然とした。うろたえてしまうほど、上半身には薄紅のキスマークが散っていたのだ。 まともに見られなくて、身体を洗う時にさえ、目のやり場に困ってしまった。
……だから、何もかも霞で包んでしまうようなこのお湯はとても心地がいい。

そこまで考えて、直江は入浴剤を入れてくれたのだろうか。高耶が透明な湯に透けて浮ぶ所有印に困らないで済むように。
常に高耶の一歩先を思いやる気配りにため息が出る。吐息はぶくぶくと泡になって目の前で弾けた。さすに息苦しさに耐えかねて、今度は身体を反転させ両肘を縁にかけその上に顎を乗せた。
縁に体重を預けて楽な姿勢のまま考える。
……この先、どこまで甘やかせば気が済むのだろう?あの男は?

躊躇いがちなノックの音がした。ドア越しに直江の声がする。
「高耶さん?大丈夫ですか?まさかのぼせているんじゃないでしょうね?」
「あ…へーき。今、上がるから……」
どぎまぎしながら返事を返して湯から上がる。
思ったより長湯をしてしまっていたらしい。すっかり温まって汗の滲んだ身体にもう一度ぬるめのシャワーを浴びる。
湯上がりに火照った身体はもう鏡に移しても痕が目立つことはなかった。気だるさも身体の奥の鈍痛もいつのまにか消えている。そして抱えていた一抹の不安も。
たぶん直江はいつもと何ひとつ変わることなく接してくるのだろう。直江は直江だ。高飛車になることもなく、関係を仄めかすことさえしない。ただ、愛しいからという理由で自分を甘やかしてくれる。普段通りの朝のように。
そんな予感がした。


キッチンから珈琲の香りが漂ってくる。
促されるままに椅子に腰を降ろしマグカップを手に取った。
「食欲はありますか?」
「ん…まだいい。食いたくねえ」
直江は眉間にほんの少し皺を寄せて、困ったように微笑んだ。
「潰れてしまいましたからねぇ」
「悪酔いしないっておまえが言ったんだろ!」
「ものごとにはね、限度というものがあるんですよ」
突っかかる高耶をさらりとかわしてにっこりと笑う。
「でも、そんなに辛くはないでしょう?そうやって大声を張り上げられるんだから…」
うまく言いくるめられたような気がして、高耶はふいっと横を向く。
目線の先には食器戸棚があって、ガラス戸越しに夕べ使った酒杯の仕舞われているのが見て取れた。
「あれ?」
高耶の声につられるように直江も眼をやる。
「あれ…あの杯、夕べのやつだよな?色が違わねえか?」
怪訝そうに首を傾げる高耶に得心したように直江が頷く。
「硝子に特殊な元素が溶かし込んであるんだそうです。白色光だと薄紫に、蛍光灯だと淡い水色にみえるんです。すこし、宝石のアレキサンドラに似ていますね」
「ふうん」
立ち上がり、手を伸ばして硝子の杯を光に翳してみた。
薄紫の上品な色合いに金の箔が散らしてある。その黄金が光を受けて、硝子が輝くのとは別の柔らかな煌きを内に閉じこめている。
「きれいなもんだな…」
ゆうべは淡い淡い浅葱色だった。岩清水のような潔さが酒の味にぴったりだったのだが、こうしてみると薄紫に染まったあの酒も味わってみたい気がする。
「飲んでみたくなったでしょう?」
悪戯っぽく笑いながら、直江が高耶の考えを言い当てた。
吃驚して目を上げた。
「なんでわかった?オレ…そんなに物欲しげにしてたか?」
直江はゆるゆると首を振る。
「私もね、これを買ったときにそう思ったからですよ。手に入れたのは旅先の造り酒屋でしたが、いざ使おうと包みを開けてみたら、あの水色でしょう?手違いがあったのかと腹が立ったんですが、 あれはあれで素直ないい色だし、まあいいかと…。朝になって二度吃驚です。今のあなたみたいに。慌てて電話しましたよ。前夜とは逆の理由でね。結局、一点物で、数がなくて、もうひとつ手に入れるのがやっとでしたが」
普段、慌てることなどなさそうなこの男が受話器にかじりつくさまを想像しておかしくなった。
この色の変わる杯は、たぶん、直江の複雑な琴線に触れたのだ。目の前のこの男とよく似ている。惹かれあうのがわかる。昼の色と夜の色と。二つの顔をこの男は持っている。
「ひとつ持って帰りますか?」
「いや、いい」
直江の分身を連れ帰るようで魅力的な申し出だったが、高耶は言下に断った。
「ひとりで飲んでもつまらない。あの酒は、おまえと飲みたい…」
言いながら赤くなった。
本当は飲むときにあの心地よい温もりが欲しかったのだ。どちらが欠けてもあの幸せな酔いはやってこないと思うから。
「また泊まりに来てくれる?」
意味ありげに問いかける直江に小さく頷いてみせる。
「じゃあ、それまでにもうひとつスタンドを増やしておきましょう。白熱光のを。そうすれば夜でもこの色のままで楽しむことが出来ますから」
なんなら今から買いに行きましょうか?と真顔で言うのを慌てて制する。
笑み崩れる顔に、からかわれたのだと悟ったがもう遅い。
「さあ、そろそろ大丈夫でしょう?軽くお腹に入れて、ちょっと買い物に付き合ってくださいね」
「おい、まさか本気で電気屋に行く気か?」
「本屋ですよ」
直江が応える。
「美弥さんにお菓子の本を買わないと」
忘れたのかといいたげな顔で見つめられて、テーブルに突っ伏してしまう高耶だった。




何軒かの本屋をはしごしながら、結局、高耶はそのまま家まで送ってもらう仕儀となった。
普通の男なら気後れのする婦人書のコーナーにもなぜか直江はしっくりと馴染み、吟味のうえ数点を選び出すと、堂々とギフト包装まで頼んでしまったのだ。
後ろには高耶の荷物と一緒に綺麗にラッピングされ、リボンまであしらわれた、その美弥へのプレゼントが鎮座している。
途中で休憩を挟むゆったりとしたドライブに、いつのまにか、助手席の高耶はうたたねをはじめてしまった。

……遠くで自分を呼ぶ声がする。…懐かしくてこそばゆくて、この声の傍なら大丈夫だ。そんな安堵に包まれて……はっと我に返った。

名前を呼んでいたのは直江で、窓の外はすでに見慣れた自分の町の風景だった。
「わるい。寝ちまってたんだ…」
気にするなというように直江はかぶりを振って、何処でとめましょうか?と、訊いてきた。
すこしだけ考えて、団地からは離れた路地に止めてもらう。
「じゃ…いろいろ…サンキュ」
小声で別れを告げると、高耶は男に背を向け歩き出した。
その後ろ姿を見守っていた直江が、ドアに手をかけたとき、そのかすかな気配を感じたように高耶が肩越しに振り返る。

眼が…何かを訴えている。まるではぐれてしまった仔犬のように頼りなげに揺れている。こんな表情は初めてだった。
「高耶さん…」
呼び止めて、駆け寄ろうとしてあやうく堪える。
「逢いたくなったら…」
不安そうに見開かれる瞳。緊張の走る身体。
「連絡します…構いませんね?」
目に見えて高耶の緊張が緩んだ。はにかむような笑みが口元に浮びかけて、たちまち消えてしまう。
「待ってる」
それだけ言うと、今度こそ高耶は振り返らずに歩き始めた。
…逢いたくなったらいつでもいらっしゃい…
言いかけた言葉を飲み込んで咄嗟に別の台詞に置き換えたのは大正解だったらしい。
デリケートに揺れ動く高耶の矜持をまもってやれたことにほっとため息をつく。

殻は破っても一気には進めない。揺れ動く感情を見定めながら接していくのは今まで以上に神経を使うだろう。 それでも、あえて踏み出した一歩を、決して後悔することはない。

輝く貴石が光によってその色を変えるというなら、そのもっとも美しい瞬間には、常に自分が立ち会うのだから…
原石を手にした男は、そんな幸福な夢に酔っていた。





小品集「水晶のかけら」に収めた「聯珠」の翌朝の掌編です。
お酒と同じくこの硝子の杯にもモデルがありまして、どうしても書き留めておきたくてひねくりだした話だった気がします。
厳密には和綴じではないのですが、同じお酒と杯をテーマにもう一編「月を喰らう獅子」を書いています。
こちらは海さん宅に差し上げたものなので、よろしかったら目次ページから飛んでみてくださいまし。<(_ _)>

文が拙いのは相変わらずなのですが(寝室にいてシャワーの音が聞けるほど直江の部屋は安普請じゃないと思うの…(-_-;)←ひとり突っ込み)
一夜を共にした後の高耶さんのうろたえぶりを少し書き足せて楽しかったです(笑) …初体験…そうそう書けるチャンスないですから(大笑)




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