鵺と花夜叉






里山に遅い春が来ようとしていた。
ようやく緩みだした陽気に誘われて木々の梢の先が赤らみ膨れて、やがて一斉に割れはじめる。
数日のうちにそれらは滴るような新緑の若葉となるのだが、芽吹いたばかりの今は、まるで光のベールに包まれた淡い萌黄色の花のようだ。
樹それぞれに微妙に色調の異なる淡翠が重なって柔らかな春の衣を織りなしている。
何の変哲もない雑木林がこの限られた時期にだけ帯びる見事な色彩。
その賑やかさは、まさに山が微笑っているようだった。



そんな山の杣道を辿る旅の武芸者の姿があった。
目指すのは山頂近くにある山の神を祀る小さな祠。
農耕期を迎えて祠の神は里へ降りている。 詣でる里人も途絶えたその空の御堂にて、一行は、落ち合う手筈をつけていた。


近隣の里に流布する奇妙な噂を聞き込んできたのは勝長だった。

妖としか思えない光る目玉が、ここ一月毎晩のように宙を飛ぶという。
馬が怯え、犬が狂ったように吠え立てる。戸締りをしたはずの屋内から食べ物が消える。
一度など、泣き叫ぶ赤子の声にに家人が駆けつけると、その顔がべったりと血に染まっていたことがあった。
その家の屋根には、月を背景に黒々とした妖の影が浮んだという。
「それがまるで鵺のようだったと…そう云うのか?狢か何かの見間違えではなくて?」
景虎の問いに、勝長はかぶりを振った。
里人の言に拠れば奇妙に蠢く長い尾はまさしく蛇のようであり、細い四肢もくびれた胴の具合も紛れもなく化け物だと、そう言うのだ。
怯える里人は僧形の勝長にすがりついた。凶兆の触れではないかと里全体が恐慌状態だった。

無下にも断りかねて不承不承に話を請負い、探索のため各所に散った面々のその合議の刻限が迫っている――


黙々とあるく直江の足が不意に止まった。軽やかな笛の音を耳に拾ったのだ。
山全体に谺して定かではないが、篠笛の音は、案に相して目指す祠とはかなりずれた処から響いてくるようだった。
思わず息をつく。 緊張に引き締っていた顔がほんの少しだけ緩んだ。
そのまま、崩れかけた石段に腰を降ろし、あたりに響く飛天の楽曲に耳を澄ませる。
それを奏でる主を探そうとは思わなかった。
顔を付き合わせれば、いつもの皮肉の応酬が待っている。 あの強い視線に晒されるのは、いつだって相応の気構えが必要だった。
自分が近づけば、景虎は笛を奏することさえ止めてしまうだろう。それならば、いっそこのままの方がいい。
今は、まだ、この音をもっと聴いていたい。そう、思った。

楽の音は高く低く自在に姿を変えて流れてくる。
耳で聞いているはずの音がまるで目に映るようだった。
風に乗って天にまで舞い昇るかと思えば、たなびく霞のようにゆるやかにたゆたって弧を描く。
それはまるで美しい天女の纏ううすぎぬが春風に翻っているようで―――その微笑に誘われ、手を引かれて、魂がともに遊ぶ心地がした。

突然、笛の音が途絶え、それまでうっとりと聞き惚れていた男がはっと我に返る。
その、あまりの唐突さが引っ掛かった。
何か遭ったのではと、嫌な予感に急かされて闇雲に走り出す。
薮を掻き分けながら、山中に踏み込んだ。けもの道すらない場所だ。蔓や下ばえに足を取られながら必死で進んだ。
「景虎様?いらっしゃいますのか」
およそのあたりで呼びかけても応えはない。これほどあからさまに近づく気配に気づかぬはずはないのに。
それに焦れてつい声を張り上げた。声も出せぬほどの事態なのかと、不安はますます大きくなる。

かさり、と微かな音がした。
反射的に殺気を込めて振り返る。
自生している山桜の樹々が目に入った。雪の重みか嵐のせいか、その中の一本は横倒しになっていて傾きながらも花をつけ樹々の根元をすっぽりと覆い隠している。
その白い花の陰になにやら浅葱の色彩がちらりと見えた気がした。山中では在りえない色に眼を凝らす。景虎が身に着けていたものによく似ている。
「景虎様!」
夢中で花の枝を押し退けて奥に分け入った。

とたんに、樹の根元に蹲っていた景虎と眼があった。
片膝を立て、袴地の裾を膝まで捲り上げている。皮膚に滲んだ鮮烈な血の赤と、思いのほか白い脛がまぶしく眼を射た。
慌てて傷を隠そうとするように彼の片手が動くがもう遅い。直江の視線はそこに釘付けになっている。
景虎は口を一文字に引き結び、眉をしかめて直江を睨みつけた。
が、その眼はいつもの攻撃的なものではなく、なにか悪戯を見つかった子どもが後ろめたさを隠して拗ねた揚げ句に開き直るような、そんな色を湛えていた。
「如何なされました?」
桜の枝を握り締めたまま、眼を見開いて凝視していた直江が、ようやく口を開いた。
その言葉に、景虎がふいっと眼を逸らす。
金縛りが解けたように、直江が傍により、景虎の前に身を屈めた。そうして傷の様子を検める。
「これはまた…酷く打ちつけましたな。皿は割れておりませぬか」
上目遣いに景虎の顔を窺う。
景虎がかぶりを振った。
「いや、大事ない。見たとおりのかすり傷だ」
嘘だと思った。本当は声も出せないほどの激痛が走ったのに違いない。肉のない部位を血が滲むほどしたたかに打ち付けたのだ。見かけ以上に痛むに決まっている。
だが、強がってみせる景虎をこれ以上は追い詰めずに、直江は放り出されていた薬箱に手を掛けた。
かさかさと樹上で動く小さな影に気がついたのはその時だった。
「?」
怪訝に思いながらも、とりあえず血止めを塗り、打ち身用の膏薬を貼り付ける。
「薬売りというのも重宝なものですが、商売道具をご自分で使うのはいただけない。御身、大切になさいませ」
晒布でしっかりと固定しながら釘をさす。
無言のまま直江の手当てを受け入れていた景虎が、不意に、男の懐に顔を近づけた。
ぎょっとして思わず身が引けた。
「よい匂いがする…。そなた、懐に何を持っておる?」
「はっ?」
つられて目を落とす。そういえばと懐中から引っ張り出した包みには飴を絡めたかきもちが入っていた。 あやかしについて調べてまわる直江に、里人が押し付けたものだ。
「……貸せ」
そう言って直江の手から一切れ取り上げた。そうしながら目線は何かを探すように彷徨っている。
「景虎様?」
「しっ、動くな」
直江を制し、自らもまた石のように気配を殺して何かを待っている。
しばらくして木陰から顔を見せたのは、先ほど視界を掠めた小さな影だった。

「これは…猿、ですか…?」
見たこともない珍妙な獣だった。
赤い顔に黒褐色の毛並み、金色に光る丸い大きな目が正面を向いて二つ並んでいる。細い足と、くびれた胴と、なによりゆらゆらと動く体調ほども在る細い長い尾が印象的だ。
「こいつが鵺の正体だ」
平然と景虎が口にした。
「一度、相模で見たことがある。明国渡りの猿だ。人馴れしているから、大方どこぞの豪商で飼われていたのが逃げ出したのだろうよ」
傍らで直江が絶句している。
確かに影だけみれば化け物に見えないこともない。
猿ならば、屋内に侵入するのも身軽に空を飛ぶように移動するのも容易かろう。食べ物が消えるというのも、乳の匂いのする赤子が襲われたというのも頷ける。
さて、その猿は、用心しいしい景虎に近づくと、その手からかきもちをひったくるなり樹上へと身を翻した。
見上げれば仲間がいて、仲睦まじく菓子を分け合っている。
「番か…親子なのだろうな。木の上のあれは怪我をしている。手当てをしようとしたのだが…しくじった」
ぽつりと洩らした言葉に得心がいった。おそらくはその拍子に膝を打ち付けでもしたのだろう。
なるほど猿を捕まえようとして転んだなど、直江には口が裂けてもいえないに違いない。怪我の現場を見られて手当てを受けたこと自体、歯噛みしたいほどの屈辱なのだろうから。
そ知らぬふりをして、傍らの景虎にちらりと視線を走らせる。
猿を見遣る彼の目は驚くほど優しい。
もう一度、今度は幾分馴れ馴れしく近づく猿に、口元を綻ばせながらさらに菓子を与えている。
ちりりっと胸の奥が痛んだ。
その感情が何なのか、確かめることもせず、無理やり蓋をして押し込める。

自分たちはかたちだけの主従なのだから。
気持ちの揺れなど必要ないこと。
たとえ、主が自分には決して向けぬ貌を行きずりの獣に見せたとしても動揺する謂れはない。

「勝長殿もそろそろ到着する刻限でございましょう。如何いたしますか」
感情を押し殺した直江の口調に、すっと笑みを消した景虎が応じた。
「ただの獣と解った以上、我等が出張る必要はない。里長に話して罠でも何でも仕掛けさせればよかろう」
「よろしいのですか?ずいぶんと懐かれたご様子ですが…」
幾分の皮肉をこめて問いかける。
「余計な気遣いは無用だ」
言い捨てて立ち上がる。そのまま軽くびっこを引きながら歩き出した。
その景虎の後を樹上から猿が追いかける。どうやらすっかり餌付けをされてしまったらしい。

微笑ましいはずの光景を目にしながら、直江は固く拳を握りしめたまま、ただ景虎の後ろ姿を見つめていた。
立ち尽くすその背中に山桜の白い花弁が音もなく降り積もっていった。




小品集「水晶のかけら」に収めた「邂逅編」の掌編です。
忘れもしないコバルト2000年四月号、ほたか先生の口絵ピンナップを見て発作的に書きなぐってしまいました。
もちろんこのイラストは雑誌から切り取って大事に保管しています。
思えばこのころからすでにパロパロしてたんですね…。私(苦笑)




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