桜花転生



谷へと下る小道は、散り落ちた花びらで白く染め上げられていた。

昨夜、高耶たちが通った城址へと続く道である。 満開だった桜は、たった一晩のうちに雪のように花を降らせて地面を覆い隠してしまっていた。
平日の午前という時間帯、何処にでも見られるように、ここにも花見場所へと向う人々の姿はあり、 三々五々の人影が桜の樹々のある尾根筋を目指している。
だが行き交う人々は皆、一様に静かだった。小さな子ども連れや年配の夫婦が、花のじゅうたんの上をそろりそろりと歩いていく。踏みつけるのが忍びないような花びらの上を、せめて荒らさないようにゆったりとした足取りで。
時折、風が谷を吹き抜ける。
そうすると、一呼吸置いたその後に、吹雪のように尾根から花びらが降ってくる。決して溶けることのないこの白い雪片は、谷の萌える緑を背景に光を受けてちらちらと輝きながら宙を舞うのだ。
その都度、人々の視線は一幅の絵のような風景に釘付けとなる。そして吐息のような控えめな歓声があがるのだった。

小道の上にはもうひとつ、耳目を集める存在があった。
他ならぬ綾子である。
元々が人目を引く華やかな容貌だけに注目を浴びることには慣れている彼女だが、今回ばかりは勝手が違った。
なにしろ、長い髪をかきあげながら佇むこの美女が纏っているのは革のライダースーツにタイトなジャケット、小脇にフルフェイスのヘルメットという、なんとも勇ましいいでたちなのだから。
これからバイクで帰路につく身としては当然の装備だが、どう考えても花を愛でにくる格好ではなく、周囲から浮いてしまうことおびただしい。
なにより本人がそのことを自覚していて、あらぬ誤解を招かないよう出来るだけ穏やかな表情を取り繕っていたのだが、すでにそれは演技ではなくなっていた。

惚けたように花吹雪に見入る顔に、夢見るような微笑が浮ぶ。
今、この瞬間にこの場に居合わせ、この風景を目に焼き付けることがただ嬉しい。そう思った。
振り仰いで花びらの舞い落ちてくる尾根を見上げる。桜の結界が山全体を覆っているのを感じ取れる。花の創りだす穏やかな気が、人の心にも作用しているのが、解る。
盛りを過ぎたいまでさえこうなのだから、夕べはいったいどんなだったのだろう?
そう考えて、くすりと笑いを洩らした。
今朝の直江の満ち足りた表情を思い出す。
あの、頑固で強情でこじれきったふたりの気持ちがすんなりと溶け合ったのは、ただ語り合ったから、だけではないのだろう。その本音を曝すのが何より苦手な似た者同士なのだから。
花見に行った、と聞いてなんとなく合点がいった。自然の持つ精霊の力は侮れない。実際に足を運んでみてそれは確信に変わった。花の持つ気が、ふたりの背中を押したのだろうと。
ましてやここは……
髪に触れる優しい気配に、物思いに耽っていた視線を上げる。
頭上に桜の枝が張り出していた。
まるで胸中を察したかのように、そこから散った花が綾子の上に降りかかってきたのだ。
声なき桜の歓迎を受けたようで、にっこりと樹に向って会釈をおくる。
心の裡で呟く。
こんにちは、ありがとう、と。



勾配を上り詰めた先に広がるのは、一面の桜と、笑いさざめく車座の人の輪だった。
花吹雪の下で、皆、名残惜しげに最後の宴を楽しんでいる。どこにでもありそうな花見の風景に、綾子にはもうひとつ、別の光景が重なってみえた。

月の薄明かりの中、白く浮かび上がる桜と、その下の二つの人影が。
ため息が零れるほどの幻想的な眺めだった。まるでこの世のものではないような。
ざわりと肌を撫でていく夜風さえ体感できそうだ。
そうして、どんなふうに高耶が身を震わせ、よりそう影がどういうふうに庇ったのかも。

ぶるぶると頭を振って、綾子は現実に立ち戻る。
放っておくとそのまま桜の持つ記憶に引き込まれてしまいそうになる。ゆうべのふたりの余韻がまだ漂っている今はなおさらのこと。
「まったく…霊視できるのも善し悪しよね。あたしにデバガメの趣味はないんだから」
照れ隠しのように小さく毒づく。
ここに来たのは、ほんの思い付きだった。夜桜見物と聞いて、つい生来のおまつり根性が騒ぎ出してしまったのだ。花見どころでなかったのは、綾子も同じだったのだから。
とりあえず、今年も桜の美しさは充分堪能したし、気懸かりだったふたりも元の鞘に収まりそうだ。さて、帰ろうか。と、もう一度、広場の桜に目を移した時だった。
何か別の気配の感じに首を傾げる。
邪悪なものではない。自然に生きるものの大気に溶け込むような意思。先ほどから感じているものと同質のひとを穏やかに和ませる気だ。
引き寄せられるように、綾子は広場を横切り、反対側の斜面へと降りた。
尾根のこちら側にも杣道はありなだらかな丘陵を縫うように奥へと続いている。 今居る頂上付近が一番樹影も濃く、土地が平らであるために花見客はほとんどがこの広場で宴をはるが、桜の樹は山全体に植えられ、あちこちで花を咲かせているのだった。 少しずつ色合いの違う花が重なるさまは、まるで薄紅の霞がたなびいているようだ。
導かれるように幾つかの丘を超え、たどり着いた奥は来たのとは逆方向の町を見下ろす高台になっていた。
昔の庭園跡なのだろう。苔むした飛び石が半ば土に埋もれ、本来なら綺麗に剪定されるはずの松や楓の木々が野放図に枝を広げている。
その中央、萌えだした春草で一面に覆われた小高い丘に、澄んだ空を背景にして一本の枝垂桜の大樹が花の天蓋を広げていた。

その樹を目にしたとたん、訳もなく涙がこみあげてきた。
ただ懐かしかった。
何故だろうと思うまもなくおのずと答えが出る。
この枝垂桜の放つ気は、景虎のものとよく似ているのだ。
直江が高耶を連れ出した真意が今始めて解った気がした。この山に咲く樹々が皆一様に優しい理由も。この枝垂桜が気の源になっている。
ここには景虎だったものの一部が眠っているから。
花のつくる帳にはいり、その幹にそっと手を触れ額を寄せた。樹の思いを読み取るように。ためらいがちなとぎれとぎれの断片が流れ込んでくる。
高耶の知らない直江も語らない数十年前の二人の想いが、樹の記憶に受け継がれている。まるで自身がその一部に同化したように、長いこと綾子は動けなかった。

ここは、数世代前、景虎の換生した地だった。そして、寄り添うように直江もまた共に生きていた。
それ以上のことを綾子は知らない。
直江もまた詳しくは語らない。
ただ宿体が酷く虚弱で夭折せざるを得なかったと、そう聞いている。
長年換生を繰り返した身であれば、そういうこともあるだろうと、今までは気にも留めなかった。
時代が動いていた。
維新前後の混乱は、確実に怨霊の数を増やし闇に飲み込まれる怨嗟の量もまた戦国のあの時代に匹敵した。
調伏に忙殺される中で、少しでも霊力の高い宿体は必要不可欠な道具だった。胎児換生など悠長な真似はしたくても出来ない状況で、他人の肉体を奪って使い捨てにするのもやむをえない仕儀だった。
少なくとも綾子はそう割り切っていたし、千秋も、直江も、景虎でさえそれが必要悪であることを認めていた。
そう信じていた。今の今まで。
だが、それによって、誰よりも裡に痛みを抱え込んだのは他ならぬ景虎自身だった。




離れの座敷に布団が延べられている。
薬湯の入った吸いのみと薬袋が置かれたその枕元に、ひとりの書生が端座していた。激情に耐えているかのように、膝頭にそろえた両手は袴地をきつく握りしめ、ぶるぶると震えている。
と、思い詰めたような瞳で、己の広げた掌を凝視めた。そのまま、その手が横たわる人影の喉へと掛かる。
小刻みに震える手に、一気に力をこめようと殺気を放った瞬間、眠っていたはずの病人が瞼を上げた。
「…まだ駄目だ。直江。俺はまだ大丈夫だから…早まるな」
殺されようとしているものの言葉とは思えない穏やかな制止だった。眼に深い哀しみを湛えて苦痛に歪む男の顔を見上げる。
「何故です?なぜあなたがそこまで苦しむ必要がある?先ほど医者がご両親にも告知していきました。保ってあと半月だと…。 たかが半月、早めたって構わないでしょう?もうこれ以上苦しむあなたを見るのはたくさんだ。そんな身体、さっさと見切りをつけてしまいなさい」
血を吐くような男の叫びに、景虎は静かに返す。
「おまえがそれを言うのか…」
布団から手が伸びて男の腕に触れた。肉が落ち、やせ衰えた瀕死の病人の手だった。そんなものを認めたくなくて思わず視線を逸らす。
横を向いてしまった直江に構わず、天井をみあげたまま景虎が続けた。
「俺たちはまたやり直せる。だけど、この家にとって『沼田雄一郎』はたった一人だ…。彼の生を最後まで全うする義務が俺にはある。違うか?」
「景虎様…」
静かな決意だった。それ以上は何も言えずに直江もただ押し黙る。
賑やかに雲雀の囀る声が高く響いていた。


景虎の今生の宿体、沼田雄一郎は胸を患っていた。
今でいうなら癌だったのだろう。肺はおろか身体のあちこちに転移してもう手の施しようのないところまできていた。
生来が蒲柳の性質ということもあり、最初に喀血したせいもあって、人目を憚って郊外の寮で療養をしているのだが、癒える見込みのないのはもう誰の目にも明らかだった。

開け放った障子戸から、五月の風が吹き込んでくる。緑の薫りが濃い。山の中腹に位置する寮からは、庭に出て枝折り戸を抜けさえすれば眼下に見事な眺望が拓けるはずだった。 今はその体力さえない。ただ病人の気が塞がないよう、四季折々整えられた庭の眺めが在るばかりだ。
「なあ、直江。この身体が死んで、俺を別の身体に換生させても…おまえはしばらくこのままでいてくれないか?母上が立ち直るまで力になってやってくれ…俺はあの女性の最愛の息子を奪ってしまったから…」
しばらく外を眺めた後、ぽつりと景虎が口にした。
底なしの人の良さに歯噛みをする。
「なぜそこまでする必要があるんです?あなたが換生しなくてもこの身体は命数が尽きていた。むしろ、よくぞここまで保たせたといってもいいぐらいだ。罪悪感を持ついわれなんて何処にもない」
「それでもだ。それでも…慈しんでくれた恩には報いたい。身体の痛みなんか何でもない」
嘘だ!と、叫びたい言葉は、ただ菩薩のような笑みの前に声にならなかった。
全身を蝕む疼痛がどれほど体力と気力を奪うものか、男も知っている。ましてやそれで死に至る先触れだったら。
気力の衰えは、そのまま魂の力を殺ぐことになる。次の換生に備えて、いまは少しでも温存しておくべきなのに。
正論なら幾らでも吐ける。後見人として責務を優先させるよう諭すことも。だが、今の直江の言葉は、一人の人間として在ろうとする景虎の前では何の力も持たなかった。
「…四年、いや、五年になるか。この身体を借りてから…せめて形見を残してやりたかったが……それも叶わなかったな…」
自らの生には執着しないくせに、他人には哀しくなるほど優しい。
「少し…疲れた……」
そう言って、ことんと目を閉じる。麻薬の混じった薬が効いているのだろう、穏やかな寝息だった。
その寝顔を、直江は、嗚咽を堪えながらただ見つめていた。

程なく、沼田雄一郎としての景虎は息を引き取った。
景虎が最後まで気遣った母親は一人息子の死にも気丈に振る舞い、ただ思い出の縁にと、寮の在った高台に桜の苗を植え、その根元に息子の遺髪を埋めた。
直江の宿体だった遠縁の書生は、約束通り暫くその家族を見守った後、ふっつりと姿を消した。
失踪する前日、まるで何かの証のように桜の前で腕を切り、念を込めて血を流したことなど、本人以外知りようのないことだ。
血を呑んだその樹以外は。
人の生を終えた雄一郎は、樹とひとつになって再び生き始めたのだった。




「…だから…ここはこんなに静かなのね」
優しすぎる景虎の想いがそのまま鼓動となって伝わってくる。何十年と歳旧りても、続く若木が次々と植樹されても、その思念は絶えることなく続いて、この地に小さな奇蹟をもたらしたのだ。
必要以上に荒らされることなく、酔客でさえここでは遠慮するような、花の楽園が。

「ありがとう…」
心からの感謝を、今はいないもうひとりの景虎に。
そして、今を生きる景虎が、他人に向ける優しさの万分の一でも自分に振り向けて心穏やかにいられるように…願わずにはいられない。
花の見せる夢が、どうかあの子にも届きますように……。




熱の様子を見ようと額に触れたとたん、眠っていたはずの病人が瞼を上げた。同時に怪我をしていないほうの手が動いて直江の手首を掴む。
その感触に安心したのか、高耶は息をついて眼を閉じた。
「妙に生々しい…いやな夢を見た…。熱のせいかな?」
再び瞳を上げて覗き込む直江を見つめる。
「おまえを残してオレが先に死ぬんだ。…でも、しあわせな夢かもしれないな。…置いていかれることばかり怖がっていたから…」
「高耶さん」
非難を込めた叱責にちいさく首を振る。
「大丈夫。ただの夢だ。もう、そんなことは考えないから。今はおまえと生きることだけ……」
「そう、それだけ考えていてください…ずっと傍にいますから」
直江の手首を掴んだまま、高耶はまたとろとろと睡魔に飲み込まれていった。
自由を奪われた格好の直江が苦笑する。半分ベッドに縛り付けられたまま、楽な姿勢を取って窓の外に目を向けた。
いつか、高耶に話すことはあるのだろうか。
「あなたを愛さない人間なんていないんですよ。本当はね……その証があそこにある…」



来る春も来る春も、もう一人の高耶の分身は惜しみなく花を咲かせ続ける。





惑いの月〜桜花終焉の番外編です。 初めて書く景虎様にえらく緊張した覚えがあります(笑)
勝手に名前つけたりこんな性格付け(邂逅編はまだろくに読んでいなかったので)でいいのだろうか?と悩み慄きつつ、
とにかく時間が限られていたので(委託の冊数合わせのための突発本でした)見切り発車してしまいました(苦笑)
…これで私が個人的に張った伏線は出尽くしたかと思います。
美弥ちゃんの趣味がお菓子作りだったり、高耶さんがケガにかこつけてねーさんに絡まれたりするかわら版は、
つまりはこんな事情を引きずっていたからなのでした<(_ _)>




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