傾けられた瓶のなかで、揺れる液体が涼しげな音をたてた。 よく冷やされていたそれは、酒杯に注がれると、見る間に硝子の表面に細かな水滴の粒をまとわせてゆく。 その曇りが、器の八分目に差し掛かったあたりで、すっと、瓶を支えていた手が上がる。 いかにも手馴れた、流れるような一連の動作だった。 そんな直江の仕草を、高耶は、みるともなく眺めていた。 もう何度目になるのだろう。この酒を、この器で、この男と酌み交わすのは。 そんなことを考えながら、杯を手に取った。 部屋を訪ねれば、当然のように用意されている。 極上の酒のもたらす酔いが心地よくて、高耶もあえて異論は差し挟まない。今夜もそうだった。 口に運びかけて、楽しみを延ばすように杯をまわしながら眼でも味わってみる。 ふと、その手が止まった。じっと杯を凝視したまま動かない。 やがて、伏せられていた視線があがって、怪訝そうに見つめる男を捉えた。 「直江……、月だ……」 注がれた酒の表面いっぱいに杯の箔が乱反射して、優しげな黄金色の弧を描いていた。 硝子が水滴で曇っているだけに、まるで朧月が浮んでいるようだ。 「何回も呑んでたのに……気づかなかったな」 あちこちから覗き込み、角度を変えて反射の様子を確認しながら高耶が言った。 「気づかないまま、オレはずっと……月を呑んでいたんだ」 そしてゆったりと口元に運び、一息に呷った。 仰け反った咽がこくりと上下する。 差し出される杯に、再び酒が注がれる。 硝子の縁ごしに、まるい月があらわれる。 そうして、何度、呑み干しただろうか。 「贅沢な気分だ……。オレが月を独占している」 そう呟いた高耶の眼はすでに酔いに潤んでいた。 「まるで、月を喰らう獅子ですね……」 それまで無言でいた男が囁くように言った。問い掛けるような視線に促されて先を続ける。 「インドの…マドゥバニ地方に伝わる民族画のモチーフです。 獅子がその身に無数の月を抱えている絵で……、想像力を刺激されますよ。いかようにでも意味がとれる……」 「たとえば?」 「そうですね。単に月の満ち欠けを表現しているのかもしれないし、永遠に続く、滅びと再生の寓話なのかもしれない。 或いは至高の存在に焦がれつづける人々への戒めなのかも……」 穏やかな直江の口調が心地よく耳に響く。いつのまにか眼を閉じた高耶の上体がぐらりと傾いだ。 「高耶さん?」 引き寄せられるままに身を預ける。髪を掠める感触に、知らず、唇がうすく開いた。 「いいから、続きを聞かせてくれ……その獅子の話……」 柔らかな語りがそのままイメージとなって脳裡に映る。 漆黒の闇の中、岩山の頂きに、天空を睨めつける獅子が一頭、月に焦がれて咆哮する。 逞しい背が一瞬たわんだかと思うと、自重を感じさせない見事な跳躍で宙を駆け上ってゆく。 目指すは、遥かなる月。 艶かな毛並みが銀粉を撒いたように淡く輝き、燐光のような光の筋が残像の軌跡を描く。 幻想のなかで、獅子は、直江の貌をしていた。 「連れて行って…」 ―――オレも、その高みに――― 幻想の獅子に語りかけた言葉に現実が応えた。 ふわりと身体がもちあがる。 振り落とされそうな予感におびえて、思わず両手でしがみつく。 だが、それは杞憂にすぎなかった。 なんて滑らかに動くのだろう。このしなやかで美しい獣は。 安心しきってくたりと全身から力を抜き、微笑さえ浮かべた高耶を、直江はそっと褥に横たえた。 「今日は……ちょっとペースが速過ぎましたね」 髪を梳きながら耳元に吹きかける苦笑まじりの囁きも、もう届いてはいないだろう。 反応のない相手にこれ以上悪戯を仕掛ける気にもならず、直江は静かに身を起こした。 「おやすみなさい。よい夢を……」 夢の中には月を喰らうミティラーの獅子が棲んでいる。 どちらが獅子でどちらが月なのか、誰が喰らい、誰が喰われるのか……。 解答のでない疑問をふたりは抱えつづける。 |