その日の夜更け、高耶は直江の部屋の前に佇んでいた。 他人の家を訪ねていい時間ではない。ましてや夜討ちめいた見舞いなど。 ここまで突っ走ってきた無謀、そしてこれからしでかそうとする非常識を詰る心の声がないわけではなかったけれど。 それでも、止まらなかった。 高耶は握りしめていたスペアキーに目を落す。 照弘から預ったものだった。 鈍く光を反射する銀色のそれにしばらく見入った後、高耶は決然と頭をあげて施錠されているドアを開けた。 重く澱んだ空気が暗い廊下に満ちている。先日の訪問でおよその間取りは心得ていたから、 寝室だろうとあたりをつけたドアを控えめにノックした。 返事はない。 高耶はそっと中を窺った。 絞られた照明の中、寝台に横たわる人影を確認して静かに室内に滑り込む。 用心しいしい近づいて、すこしやつれた感じのする寝顔を痛ましいような思いでみつめた。 (ゴメンな。オレの所為で、こんな病気にさせちまって) もちろん高耶の責ではあり得ないし気に病む必要もないと、謝る高耶に照弘はくどいほど念を押した。それが弟の真意だとも。 それでも。もし、自分が我を通さなかったら。分をわきまえておとなしく最初の勧めに従っていたら。 少なくとも、今回直江が水痘に罹患することはなかったのだ。 それなりの地位にある人間の予定を二週間も狂わせてしまった。その穴を埋めるのに男自身にも周囲にもいったいどれだけの迷惑を掛けることになるのだろう。 (このぶつぶつも。痕、残ったらどうしよう……) 端正な目鼻立ちを台なしにする赤い水疱に、暗澹たる思いで唇を噛みしめた時、 眠っている男がかすかに身じろぎをした。 睫毛が震えゆっくりと瞼が開いて鳶色の虹彩がのぞく。 まだ夢の中にいるようにその瞳は何も映さず、どこか虚ろな表情が途方にくれた子どものようだと思った。 二度、三度と、直江は瞬きを繰り返す。 瞳に理知が戻り、傍に跪く影を高耶と認めて驚愕に見開かれるまでを、ただ見守った。 「……高…耶…さん?」 信じられないとばかり掠れた声で問い掛けられて、 「おう」 と、小さく返事をした。 「照弘さんが今日店に来てくれて。此処にも様子を見に寄るっていうから代わってもらった。……いろいろ差し入れ持ってきたけど。なんか食う?それとも 飲み物の方がいいか?」 尋ねながらも、高耶の手はすでに持参した袋からブレンド茶のボトルを取り出してキャップを緩めている。飲みやすいようストローを挿して差し出すそれを、直江は素直に受け取った。 やはり咽喉は渇いていたのだろう。そのまま半分ほどを一気に干して、人心地がついたように息を吐いた。 もっともそれは嘆息の意味合いも兼ねていたらしい。 「あれほど内緒にしてくれって言ったのに…」 恨めしげに呟くのを穏やかに遮った。 「照弘さんは悪くないぞ?オレが無理に頼んだんだ。おまえが治って店に来てくれるまでなんて待てない。 ……早く謝りたかったから」 「高耶さん」 もうひとつ吐息を漏らして、今度は直江が高耶を制した。 「あなたに謝ってもらうことなんてひとつもない。間が悪かっただけの話です。…兄はそれもあなたに伝えませんでしたか?」 「ううん。ちゃんと聞いた。オレ自身の考えはまた別のとこにあるけど、そこまで言うならそれは横に置いておくことにする。 でも、それを抜きにしても、オレは謝んなきゃなんない」 「私に?高耶さんが?」 怪訝そうな直江に、高耶が真面目くさって頷いた。 「十日過ぎてもこないから。オレ、おまえのこと心の中で散々こきおろしてた。 自分ばっかりバカみたいに期待してたこと、認めたくなくて。おまえを悪者にして自分だけは傷つかないように煙幕を張ったんだ。 ……すごく狡くて姑息だったと思う。 こられなかったのは不可抗力で、それでも直江はこんなに誠意を尽くしてくれたのに。……直江のこと、一人で勝手に貶めてて悪かった、ごめんなさい」 深々と頭を下げる、そのつむじから襟足のあたりを、呆然として直江がみつめる。 そんな余裕があるのも、彼が――高耶がなかなか面をあげようとはしないから。 きっと恥かしくて居たたまれなくて火の出るような思いをしているに違いない。 それでも、彼はけじめをつけずにはおられないのだ。 本当に潔い。 高耶の人となりについて、改めて感動を深くしているうちに、がばっと高耶の上体が直った。 「…やっぱりなんか食べとけ。お粥あっためるか?リンゴ剥くか?」 早口でまくし立てるその顔は思ったとおりに真っ赤だった。一度この場を離れてキッチンにでも避難したいのが本音なのだろう。 「……そうですね。リンゴなら食べられそうです」 助け舟を出すつもりで言ってみる。 「よっしゃ!ちょっと待ってて」 とたんに元気よく立ちあがった高耶は、レジ袋を片手に掴んでそそくさと廊下へ消えた。 彼の気配がなくなって、寝室は、痛いほどの静寂に包まれる。 本当に旋風のよう。でも春の陽だまりみたいに暖かなひと―― 高耶の戻るのを待ち侘びながら、いつしか、直江は再びまどろみはじめていた。 |