高耶が戻るまではしばらく間があった。 買ってきた品物を冷蔵庫にしまったり、リンゴをすりおろしたりするのに少々手間取ったのだ。 が、ようやくリンゴの器を運んでくれば、それを所望したはずの肝心の病人はまた寝入ってしまっている。 苦笑しながら静かに回りこんで小鉢をテーブルに置くと、あらためて直江の顔を覗き込んだ。 瞼を閉ざしたその表情が、先程よりは少しだけやわらいだように見えるのは気のせいだろうか。 もっともまだまだ具合は悪いのだ。普段だったらきっとこの男は高耶を置き去りに眠ったりはしないだろうから。 (熱、あるのかな…?) おそるおそる触れてみた額は、やはりかなりの熱を帯びていた。 咽喉の渇きが癒されたところで、また睡魔に引きずり込まれたのだろう。 (少し、冷やしてやるか…) 気休めにしか過ぎなくても、濡れたタオルでおでこを冷やしてもらうのはとても気持ちがよかったから。 子どもの頃を思い出して、見よう見まねで試してみる。 直江が目覚めることはなかったがひんやりとした感触が額に載ったその瞬間、満足そうな長い呼気が洩れるのは感じられて、高耶もほっと息をついた。 そのままベッド脇に楽な姿勢で座り込んで、時々、温んだタオルを替えてやった。 用事は済んだのだから、もう帰るべきなのかもしれない。 けれど、眠る直江をそのままにして挨拶もなしに立ち去ったりはしたくなかった。 もしもまた目を覚ました時に、さっきまで傍にいたはずの人の姿が消えているのはとても寂しいものだから――― (ひょっとして、こいつはそうじゃないかもしれないけど) でも、自分は寂しかったし悲しかったから。万が一にでもそう思わせるような仕打ちをするのは厭なのだ。 (もっとも身内でもないのにこんなことして。図々しいとは思われるかもな……) が、それも今さらな話だとすぐに思い直した。 ボロなら散々、半月前に晒している。もうひとつふたつ上書きしたところでどうってことはないだろう……。 そんなことを考えながら、高耶もまた、うとうとと眠り込んでしまっていた。 とてもしあわせな夢をみた、と、満ち足りた思いで目覚めた直江が、高耶からの『おはよう』に仰け反るのは翌朝のこと。 「……夢じゃなかったんですね!?」 と、感極まったように叫ばれて (なんだよ、こいつ、夢だと思ってたのかよ。ならぐだぐだ悩まずさっさと帰りゃよかったぜ) などと、逆に高耶は内心悪態をついたりしたのだが。 「……熱は引いたみたいだな」 しかつめらしい表情を取り繕っておでこに手を伸ばせば、こくんとひとつ直江が頷く。 「ええ、なんだか、お腹も空いたみたいです」 そう訴えかけるのに、毒気を抜かれた。 「そりゃよかった。待ってろ、今お粥温めてくるから…」 「でも、そこにリンゴもあるんでしょう?」 「ばぁか。病人に宵越しのリンゴなんか食わせられねーよ。新しいの用意するから少し待っとけ」 そう、ぶっきらぼうに言い捨てて、高耶は再びキッチンに向ったのだった。 白粥に梅びしお、温泉玉子、昆布の佃煮、浅漬け。八つ切りのリンゴに、少々場違いなカフェ・オ・レのマグ。 ほかほかと湯気が立ち、彩りも美しく整えられた食事の膳に直江が目を細める。 「すごくおいしそうですね」 「珈琲以外は全部レトルトパックと出来合い惣菜だけどな」 仏頂面でそうまぜ返した高耶の前には、温めなおしたスコーンとキッシュを盛り合わせた皿。直江と揃いの珈琲のマグ。 「ほんっとうに、おまえんちの冷蔵庫って何もないのな」 呆れたように嘆息されて、すみませんと直江が首をすくめた。 一緒に食べてくださいと懇願されて相伴することにしたものの、健康体である高耶の朝食になりそうな 食材はこの家には置いてなく、仕方なしに先日直江のために冷凍保存したはずのスコーンに手をつけるはめになったのだ。 「あんときの料理、結局、依頼者のおまえの口には入んなくて、オレが一人で食べたことになるじゃん? なんかフクザツっていうか、虚しいっていうか…」 焼き菓子を横に割りながら、はあ、と溜息をつく。なにしろ添えてあるジャムや蜂蜜の小びんも、未開封のまま。 ある程度は日持ちのするそれらだって、自分が一番先に手を出したとなれば、どんな言い逃れもきかない気がする。 「重ね重ね、すいません…」 ますますうなだれる直江に鷹揚に頷いた。 「まあ、出張と病気が重なったんじゃ仕方ないけどさ……。もう少しよくなったら、ホットケーキかフレンチトースト焼いてやるから。そのときにでもこの蜂蜜、使ってくれよな」 「!」 「…そりゃ、千秋みたいな一流パティシエがつくるようにはいかないけど。まあ、それで我慢しとけ」 吃驚したみたいに見つめられてつい弁解めいた台詞が口をついたが、直江はふるふると首を振った。 「我慢だなんてとんでもない!本当にあなたが作ってくださるんですか?私のために?」 ああ問題にしてたのはそこなのか、と、得心して高耶は鼻を鳴らした。 「毎食レトルトってわけにもいかないだろうし、まだデリバリーは弱った胃袋に重すぎるだろうし……。 しょーがないから、また雑炊でもつくりにきてやる。あ、もちろん他に綺麗なおねーちゃんとか看病してくれる当てがあるなら喜んで辞退するけど?」 念のために訊いてみれば直江はさらにぶんぶんと首を振った。 「もちろん、そんな女性はいませんとも!是非とも作りにきてください。どうか、よろしくお願いします」 勢いよく頭を下げられて、これじゃまるっきり昨夜の逆だなと、高耶が笑いをかみ殺す。 おまけに、朝の光の中、パジャマ姿で頼みごとをするこの男がやけに可愛くみえてしまうのは、いったいどういう目の迷いなのだろうか。 (きっと情が移ったんだな。看病の真似事なんかしたせいで) だから、面映く緩む表情を精一杯引き締めて、厳かな口調で申し渡した。 「よし。おまえの台所はこれからオレが占拠する。期間は医者の指示した禁足令が解けるまでだ。いいな?」 「はいっ!」 「じゃ、オレ、いったん帰って、ガッコ行って、それからいろいろ持ってきて、そんでバイトに出るから。 直江はおとなしく寝てること。熱下がったからって、まだ油断するなよ?」 「はい。……でも高耶さん?いろいろって?お財布渡しますから必要なものは遠慮なしに買っていただいてかまいませんが」 どこまでも怪訝そうな直江を、腰に手をあてた高耶が半眼になって睥睨した。 「おまえんちって、急須の果てからないんだもんな。せっかくお茶っぱ買ったのに。もったいないから、オレんちから足りないもんをいろいろ持ってくるんだよ」 「ですから、それこそ急須の果てから必要なものを揃えていただいて一向にかまわないんですが……」 「あほう」 おもねる直江に高耶の返事はにべもない。 「今の病気が治ったら、もうおまえはほうじ茶なんて飲まんだろうが。 たった一週間かそこらで用済みになるのが解ってんのにあれこれ買いこむだなんてオレの経済観念が許さないんだよ」 「あなたがちょくちょく寄って使ってくだされば無駄にはなりませんよ」 (え?) 「もともとこのマンションはキッチン設備の使い勝手がいいこともウリのひとつだったんです。今までは宝の持ち腐れでしたけど。 高耶さんが使ってくださるならちょうどいい。此処を別宅だと思って、これからもどんどん利用してやってくださいね」 (ええ?) 主導権を握ったと思ったのも束の間、またしても形勢は逆転である。 それでも、にこにこと邪気のない顔で、ね?と重ねて問われれば、うん、と頷いてやるしかなくて。 この日の高耶は、泣く子と病人には勝てないということを、つくづくと思い知ったのだった。 |