THE ENCOUNTER
―9―




正直なところ、肩透かしをくった感は否めなかった。
あの十日前の熱心さを思えば、期日ぴったり、あるいはその前日にでもやってくるかもしれないと予想していたのだ。

次の日も、その次の日も、直江は姿を見せなかった。
いつも通りに仕事をこなしながら、こんなものか、と、高耶は醒めた頭で考える。
きっとあの男にとっては何もかもが暇つぶしだったのだ。 或いは無関心を貫いた自分の態度が、知らず、男の自尊心を傷つけていたのかもしれない。
どちらの意味合いにせよ、少々毛色の変わった自分という存在に、男は関心を持った。
歓心を買うためには少々の策も弄したし、芝居もした。
が、それもその篭絡の過程をゲームとして愉しむだけ。 友人になどとんでもない。 自分を散々無視してきた生意気な若僧など、真剣に相手にする気は最初からなかったのだろう。
甘い汁を少し吸わせて、心にもない世辞を言って。簡単に態度を軟化させた高耶のことを男は内心で嘲い、溜飲を下げていたのではないだろうか。
なびいた以上は、もう興味は失せたし付け上がらせる必要もない。
おそらくは、そんなところ。
落胆はしなかった。落胆するだけの期待をそもそも抱いてはいなかったのだから。
そう自分に念じていた十三日め、 直江ではなく、思いがけない人物がやってきた。



「いらっしゃいませ」
いつも柔和な笑みを湛えている色部の顔がまた一段とほころんだようだった。
年の頃でいえば、四十代の半ばだろうか。仕立てのいいスーツに身を包んだ精悍な印象のその男性は、 人懐こい笑顔を浮かべて、滑るようにカウンターに近づいた。
しばらく足が遠のいていた馴染みの上客。そんな密やかな気安さがふたりの笑みに漂っていて、 会話の邪魔にならぬよう、控えめな会釈とともに皿を置いた後、すぐに引き下がろうとしたのだが。
「仰木くん」
ふいに色部に呼び止められた。
「はい?」
知らぬうちになにか不調法でもしただろうか。だが上司の視線はすでに客に向いている。
「橘さま、彼が、仰木高耶くんです。で、仰木くん、紹介しておこう。こちらが橘さま。あの直江さまの兄上でいらっしゃる」
「!」
「やあ、君が噂の仰木くんか。先日は家内と娘がお世話になったね。どうもありがとう」
互いに初対面のはずだが、明らかに相手は自分のことを知っているらしい。にこにこと見つめてくる親しげな態度に、面食らった。
(家内?娘?…直江の兄さん?)
つまり、目の前のこのひとは、本来ならパーティのゲストの一人、ケーキを届けに行ったあの屋敷の主であり直江の姪である花音の父親というわけだ。
ようやく話が飲み込めて、慌てて高耶は首を振る。
「いえ、そんな、私は何も……」
「でも、わざわざ家までバースディケーキを持ってきてくれたろう?その心遣いが私たちにはとても嬉しかったんだ」
「だから、それは、直江さんが…」
実際に届けると連絡したのも運転したのもあの男だ。自分はただ隣にくっついて訪問しただけで、なにも感謝される謂れはない。そんなたどたどしい高耶の説明を、橘は片手で制し、内緒話でもするように声を潜めた。
「身内の恥をさらすようだがね。元々、あれはそんな気配りのできるやつじゃないんだ。あのパーティにしたって、一度中止と決めたら用意されたケーキやなにやらをあっさり処分しようとしたはずだ。罰当たりにもね。…そうじゃなかったのかな?」
「いえ、……あの」
はいその通りですとも言えずにいるその逡巡こそを肯定と受け取って、橘はさもありなんと頷いた。
「それを君が諭して、娘の許へ運ぶように仕向けてくれたわけだ。そのことでも君には御礼を言わなくちゃいけないな。…本当にありがとう。弟に人としての在り様を示してくれて。 君のようなしっかりした考えのひとがあれの傍にいてくれると思うと、兄として心強いよ」
まるで見当違いの謝意を示して、地位も財産もある紳士が、ふた回りも歳下の自分に頭を下げる。 顔立ちに似たところはなくても、やはりこの人はあの男と兄弟なのだなあと、妙なところで納得しかけて、はっと高耶は我に返った。
「……そんな!かえって直江さんには迷惑だったんだと思います。その、オレなんかにあれこれ言われて」
その証拠にいまだに顔を見せないのだ。あの男は。
思わず表情を曇らせるのに、橘はぴしゃりと額を打った。
「しまった。御礼よりも先に、まずお詫びを言わなきゃなかったな。今日此処に来たのはね、義明から君あての伝言を言付かったからなんだ。
『申し訳ないが、約束はもう少し日延べしてほしい』と」
「え……?」
意味をはかりかねて、高耶が一瞬絶句する。
もの問いたげに見つめてくるその黒眸が思いのほかに幼くみえて、橘は微笑みながら、もう一度、ゆっくりと繰り返した。
「『きっと行くから。見捨てないで待っていてほしい』そうだ。……三日前、いや四日前からか、出張から戻ったとたんに体調不良で寝込んでしまったんだよ、義明は。 あれでけっこう強情なところがあってね。入院を勧めても嫌だと言うし、家政婦を派遣しようといっても他人がいると落ち着かないからと断る始末だ。 で、兄の私になら遠慮はないだろうと、なにか入用なものがあるか訊いてみたら、真っ先に君への伝言を頼まれた。本人は自分で此処に来たくて地団太踏む勢いで悔しがっていたんだが。その、とても人前に顔を出せる状態ではないのでね」
「あの……、まさか」
愚痴とも弁解ともつかぬ長広舌を、思いつめたように高耶が遮った。話を聞くうちに、もやもやした疑念が頭を擡げてきたのだ。
「……まさか、直江さんの病気って水ぼうそう……とか?」
ひょいと橘が肩をすくめた。
「…口止めされていたんだが。実はそのまさか、なんだ。娘から伝染ったらしい」
「……そんな」

今度こそ高耶は言葉を失った。






戻る/次へ






いろいろ、墓穴掘りの高耶さん…。
次は強引に場面変換(たぶん)このまま直江さんちへ直行だっ!








BACK