本来が頑健な体質だったのか、或いは高耶の仕切る食養生が効を奏したのか、直江の病状はほどなく好転した。 顔に浮き出た水疱も化膿はせずに乾きはじめていて、どうやら痕が残ることはなさそうだと、高耶はほっと胸を撫で下ろす。 一番の心配が消え去ってしまうと、現金なもので、今度は一言直江に文句を言いたくてたまらなくなった。 「まったく。姪ッ子が水ぼうそうだってのになんでうちにケーキを届けたりしたんだよ?わざわざこっちから病気貰いに行ったようなもんだ。自分に免疫ないの知らなかったわけじゃないんだろ?」 水痘は、とても伝染りやすくて、たいていは子どもの頃に済んでしまう病気のはずだ。 高耶自身も記憶はないが赤ん坊の頃にすでに罹っていたことは、学校にあがってから毎年提出させられた健康調査カードでいやというほど確認している。 もちろん罹患しないまま大きくなる人だっていっぱいいるだろうけど、その場合は進学や就職の何処かの段階でワクチン接種を勧められるのではないだろうか。それに従うかどうかはまた別にしても。 だから、当然、直江も免疫のない自分の身体の状態を知っているはずで―――それなのに、自分の口車にあっさり乗って、むざむざと感染の危険を冒したことが腹立たしかったのだ。 ところが。 「知らなかったんです」 「は?」 あっさり返されて、最初は冗談かと思った。 「ウソ」 「いえ本当に」 自分にまっすぐ向けられる、人形めいた鳶色の瞳。 「実を言えば、子どもの頃のことはよく憶えていないんですよ」 そう言って直江は美しく微笑んだけれど。 それ以上は立ち入れない何かを、高耶は感じとった。 話の接ぎ穂を探して言いよどむ数瞬のタイムラグ。だが、何事もなかったように直江が別の話題を振ってきて、 そのときの高耶は、むしろ救われた思いで、その会話の流れに乗ったのだった。 「ところでさ、そろそろ此処にくるの、間を置こうかと思うんだけど。もう一人で大丈夫だろ?」 ひとしきりの四方山話の後、高耶は思い出したように付け足した。 一日ベッドに縛り付けなければいけない容態はとうに脱している。食事も普通の献立だ。 そして冷凍庫や冷蔵室にはゆうに一週間は暮らせるくらいの惣菜のストックをぎゅうぎゅうに詰め込んだ。 もう毎日世話を焼きにくる必要はないし、直江にしてもその方が気楽だろうと判断したのだが。 高耶の提案を鳩が豆鉄砲を食らったような顔をして聞いた直江は、すぐに、とんでもないと首を振った。 「病院以外の何処にも行けないこの状況で、今、あなたとあなたの作るほかほかのご飯がなくなったら。いったい私は何を励みに生きていったらいいんです?」 「あのなあ…」 殺生です。お願いだから見捨てないで、と、哀願されて心底脱力する。 「オレはおまえのメシスタントかよ?」 「もちろんそんなものじゃ括れませんとも!」 即座に直江は言い切った。怖いほど真剣な表情だった。 「叶うことならずっとあなたの傍にいたいんです。……たぶん最初に逢った時から、私はあなたを」 「ストップ!」 勢いづく直江に、すんでのところで待ったをかける。 それ以上の決定的な発言を聞きたくないし、言わせたくない。だって――― 「オレたちはトモダチだよな?直江」 彼の言葉を封じるように、一語一語に力をこめた。 「おまえはすごくいいヤツだし、一緒にいて楽しいし。おまえがそうして欲しいっていうんならメシぐらいいくらでも作りに来てやる。 おまえはオレにとって、そうやってずっと付き合っていきたいとても大事な友達だから。 これからも―――そう思ってていいんだよな?」 口にするにはかなり気恥ずかしい台詞だったが、高耶にしてみれば最大限の誠意であり譲歩だった。 睨みあうといってもいいほど強い眼差しが交叉する。互いの力量を窺いながら隙あらば相手の咽喉笛喰らいつこうと狙う獣のように。 結局、先に白旗を掲げたのは直江の方だった。 ふっと肩の力を抜いて直江は視線を逸らし、諦めたように微笑んだ。 「解ってはいたんです。あなたはとても優しい人で、謂れのない責任まで感じてわざわざお見舞いにきてくれるほど優しい人で。 私はそれに付け込んだ。……友人としてのお願いならまだ聞いてくれますか?あなたの都合のつくときだけでいい。どうかこれからも此処に遊びに来てください。 私も、ずっとあなたの友達でいられるように努力しますから」 「お、おう…」 「ありがとう。高耶さん」 そう言う直江は、もういつもの穏やかな直江で、でもその瞳には紛れもなく傷ついた色があって。 自分がとんでもなく非道な仕打ちをしたような気がして。 「や、やっぱり、直江が会社行けるようになるまでは、毎日、来るから」 そう、前言を翻した高耶の言葉に、 直江は嬉しそうに頷き、その後もあれこれと会話は続けたけれど。 その日はとうとう、最後まで、直江の目に生彩が戻ることはなかった。 |