―――あなたも。 ―――俺を捨てるの? 別れ間際の直江の言葉が棘みたいに突き刺さったままでいる。 捨てられる痛みなら高耶も知っている。そういう育ちをしてきたから。 でも、その台詞を直江の口から聞くとは思わなかった。 だって、おまえは違うだろ? 人も羨むような家の生まれで、容姿や才能に恵まれて。あんな立派なお兄さんまでいて。 なに不自由なく可愛がられて育ってきたのだと一目で解るそんな男が、いったい何を言い出すのか。 ばかばかしい。これはきっと言葉の綾だ。 第一、捨てるもなにも、自分たちはそんな関係ですらなかったのだから。 そう、自分を正当化しながら、あの虚ろな鳶色の瞳がいつまでも頭から消えないことに苛立っていた或る日、ふらりと照弘がやってきた。 彼の姿を見たとたんに引き寄せられた。 それは、たぶん照弘も同様だったのだろう。 いらっしゃいませ、と会釈し近づいてみたものの、そのまま固まってしまった高耶のことを初めてみたいにまじまじと見つめると、手にしていたグラスを一息に干す。 そして、傍らに控えていた色部におもむろに切り出した。 「公私混同するようで申し訳ないんだが。少しのあいだ彼を借り受けてもかまわないかな?」 相変らず柔和な笑みを主は返す。 「と、いいますと?」 「少しばかり彼と個人的な話をしたい。ここじゃ、ちょっと彼には気まずいだろうと思うんだ」 「おやおや」 内緒めいた無体な相談に、謹厳な色部の眉がつりあがった。 「橘さまらしくもない。勤務中の従業員がみだりに持ち場を離れられないことぐらいご存知でしょう?」 「すまない。でも、あなたを頼るより他に仕様がないのでね」 窘められてもこたえるふうもなく頭を下げさらには拝む仕草までする照弘に、色部が堪えきれぬような笑みを浮かべた。声を潜めて耳打ちする。 「実は仰木もこの数日体調不良が続いていまして。しかも日増しに酷くなる。今日は店長判断で早退させようかと思っていたところです。 ちょうどよかった。貸し出すわけには参りませんが、彼を最寄まで送っていただけるのなら私としても安心なのですが……」 逆に持ちかけられた提案に、にやりと照弘も相好を崩し、芝居がかった返事を返す。 「喜んで。責任持ってお引き受けいたしましょう」 まるで出会い茶屋のようなやり取りだ。しかも両者が結託してそれを愉しんでいるのだから始末に負えない。 本人の意向を確認されることもなく、結局高耶は、身請け同然にして店から連れ出されたのだった。 「さて」 連れて行かれたのは、色部の店よりさらに静かなこじんまりとしたバーだった。 カウンターの奥に陣取り適当に注文してあとは身振りで人を退けると、慎重に高耶に話し掛けた。 「改まると、照れるものだね。こんな形で高耶君みたいな若い人と話すというのは。……でも、君のほうからなにか私に訊きたいことがあるんじゃないかな。 店で目があった時、そんな顔をしてた」 「……」 確かにそうだ。この数日、どんどん膨らんできた疑問。本人に聞けない以上、一番の適任はこのひとだということも。 それでも、まだ躊躇う高耶に照弘が水を向ける。 「それは、義明のこと?」 図星を指されて、踏ん切りがついた。 「ずっと不思議だったんです。そもそも、直江…義明さんがお嬢さんから水痘を伝染されたこと。 免疫があるかどうかなんてたいてい本人が知っているはずのことでしょう? なのに、義明さんは、知らなかったって。子どもの頃のことは憶えていないんだって。そんなはずないって思ったんです。 からかわれてんのかって。でも、そのときの義明さんの瞳をみたら何も言い返せなかった。 それぐらい、…なんか上手くいえないけど……触れてはいけない禁忌みたいな色をしてた……」 「よく、解るよ」 説明している高耶自身でさえもどかしい表現に、意外にも照弘は真顔で頷いた。そして目線で続きを促す。 「えーと。そのときだけじゃなくて。このあいだ、最後に義明さんに会った時、オレ、鍵を返したんです。 義明さんがオレのこと友達扱いしてくれるのはすごく嬉しいけど。やっぱりオレなんがまとわりついてていい人じゃないと思うし。 仕事に行けばもっと忙しくなるのは目に見えていたし。もう邪魔はしないつもりだからって」 「そしたら?」 あんまり自然な合いの手だったから、つい口を滑らせた。 「オレも捨てるのかって。 ……なんで?話がまるであべこべだ。あんなに何でも持ってる人がなんでオレに向ってそんな台詞吐かなきゃないんです? 悲しいなんてもんじゃない、感情がまるごと消え失せたみたいな瞳で!」 語るうちに激した高耶が縋るように照弘を見る。照弘は長い息をついて、そして言った。 「……それはね、義明が捨てられた子どもだったからだ」 「!?」 「あれには橘の血は流れていない。私たちとは血は繋がっていないんだよ。義明は、私たち兄弟を育ててくれた継母、父の後妻にはいった女性の私生児だったんだ……」 |