逸るような、逃げ出したいような。 なんとも落ち着かない気分で、高耶はその日一日を過ごした。 実際に客を迎えもてなすのは六時過ぎからのおよそ二時間。その前後に準備と撤収の幅を持たせた五時から九時までが、色部も了解した直江の家での高耶の拘束時間である。 その約束の時刻よりかなり早めに直江の住むマンションに到着してしまった高耶は、躊躇いがちにインターフォンを押した。 が、ロックはすぐさま解除され、中に招き入れられる。どきどきと次第に胸が高鳴るのを覚えながら、目的の階まで上った。 目指す部屋番号のドアの前、高まる緊張を鎮めようと深く息を吸ったそのとき、 重厚なそのドアが静かに開くのが見えて、慌てて一歩あとずさった。 「いらっしゃい。お待ちしてました」 店で見るのとは違うラフな格好の男に、先手打つようにねぎらわれて。 落ち着かせようとしていた心臓が、再びどきりと跳ねあがった。 「…あのっ、本日はお誕生日おめでとうございます。 ふつつか者ではございますが、一生懸命務めさせていただきますっ。どうぞよろしくお願いいたします」 道々考えていた挨拶の文言――最初のけじめはしっかりつけるようにと色部からも釘をさされていたので―― はすっかり消し飛んでしまって、自分でもわけの解らぬことを口走る。 しまった。主語が抜けた。しかも、まるで嫁入りでもするような台詞じゃないかと気づいたのは、一気に喋ってしまって深々と頭を下げた後。 真っ赤になって固まる高耶に、直江は面映いような微笑を浮かべる。 「……とにかく中へ。荷物はそれだけですか?」 高耶が肩と手とに下げている大小の保冷ケースにちらりと視線を走らせる。 「いえっ!これはケーキとプチフールで。まだ車にフィンガーフードと什器が……」 最後まで言わせずに、直江は、高耶からケースをひとつ引き受けると、すたすたと奥へ引っ込む。 「どうぞ。いったん中へお入りください」 「…はい」 そうまでされては従うしかない。ケースの後を追うように、直江の部屋へと足を踏み入れた。 ホームバーが設えられるだけあって、広々としたリビングだった。 そして、いっそよそよそしいほど綺麗に整えられた空間だった。 「?」 掃除が行き届いているのは当然としても、この部屋に、ひとを迎え入れ楽しませようという温かな雰囲気は感じられない。 本当に此処でこれから誕生会なんかできるのだろうか? ケーキの入った保冷ケースをカウンターに置きながら、いいようのない不安に駆られて直江を窺がう。 その彼は棘でも刺さったように曰く言い難い表情を浮かべて高耶を見つめていた。 「―――あの」 「―――申し訳ないのですが…」 声が重なった。一瞬どちらも黙り込み、やがて意を決したように直江が先に口を開いた。 「今日の誕生会は中止になりました。せっかく準備していただいたのに、すみません」 (え?) 心の中で絶句する。 驚愕は、素直に面に出てしまったらしく、 直江は高耶の顔からいたたまれないように目を逸らした。 「肝心の主役……姪の花音が熱を出したと義姉から連絡があったんです。すまないがパーティはキャンセルしてくれと」 「………」 病気なら仕方ない。運が悪かったのだ。その子も、自分も。 そう、半ば無理やりに納得はしたものの、突然のキャンセルにぽっかり空いた喪失感はどうしようもなかった。 無意識に泳いだ視線がケーキの箱の上で止まる。 (この誕生ケーキも…。あんなに千秋が頑張ったのに) 口は悪いが仕事に対する情熱は人一倍のパティシエは、高耶を介してしつこいくらいに女の子の好みをリサーチし、 世界に一つしかないその子のためのケーキに仕上げたと豪語していたのに――― (全部無駄にしちまったな。ごめん。千秋) 内心で謝りながら、いや待てよ、と、ふいに高耶は思い直す。 無駄にはならずにすむかもしれない。パーティはなくなっても、今、此処にあるこの箱を、その子の家に届けてもらいさえすれば。 上客の依頼者に使い走りを頼むのはあまりに無礼に過ぎるだろうか。 でも、元々誕生会を発案したのは直江のほうだ。 姪が可愛くないわけはないだろうし、 目の前のこの男がそれを承知さえすれば、すべてが、とは言わないまでも今のもやもやはだいぶ軽減される。 自分たちだけじゃなく、きっと、その子だって喜んでくれる――― そんな考えをまとめるのに要したのは、瞬きほどの間。 高耶はケーキの箱から直江に視線を戻した。 覚悟を決めてこのいささかムシの良い頼みを口にしようとしたのだが、再び語りだした直江の言葉に遮られた。 「……もちろん非はこちらにありますから全額経費は支払います。 ただ、こんなにたくさんの菓子は私ひとりでは持て余してしまうので。 スタッフのみなさんで食べてください。もちろん、仰木さんが個人的に家に持ち帰ってもいっこうにかまいませんよ? 色部さんには内緒にしておきますから」 「!っ」 思ってもみなかった言葉だった。 だが、直江は高耶の素早い反応に気をよくしたのか、自信ありげに宣言する。 「そのケーキ、ずいぶん気になるみたいですから。私からあなたにプレゼントします」 身勝手な言い分を、おもねるように切り出されて。 憤怒に目の眩む思いがした。 (やっぱり、こいつは…っ) 「ふざけんなっ!」 思わず、怒鳴り返していた。 |