THE ENCOUNTER
―8―




「で。なんでタチバナさんなのに店では直江と名乗ったわけ?最初からよからぬ下心があったりとか?」
傍らに座る高耶から、いささか険のある流し目とともにあけすけな質問を投げかけられて、思わず直江が苦笑する。
「違いますよ。もちろん色部さんは私の嘘を全部ご存知の上で目を瞑ってくださってたわけですが。 あの店は隠れ処みたいな場所でしょう?そこに余計なしがらみを持ち込みたくなかったんです。直江というのは、まあ、通り名みたいなもんですね」
だから呼び捨ててくれてかまいませんよ、と、返されて、今度は高耶が言葉につまった。
「色部さんがサマ付けで呼ぶ名前をオレが呼び捨てに出来るわけないだろうがっ」
「だから、此処ではの話です。高耶さんだってそのほうが言いやすいかと思いますが?」
「………」
確かにその通りだと思う。男のいいように言いくるめられて、ついついぞんざいな口利きをしている身としては、 今さら名前にだけ敬称つけても始まるまい。
しかも、もてなすために雇われたはずの自分が、なぜか雇った直江の隣りに 陣取ってこうして料理をぱくついているのだから―――
高耶はこの日何度目になるかわからない深いため息を吐いた。


もちろん、高耶だって最初は職務を全うしようとしたのだ。男が車を停めて、さてこれからどうしましょう?と口火を切った時に。
時刻はまだ七時過ぎ。予定の時間の半分近くも残っているし、用意してきた料理だってスイーツ以外は手付かずだ。このまま帰れるわけがない。
バーテンとして派遣された意地にかけて、酒の一杯もサーブしてやるとばかりに、鼻息も荒く再びこの部屋に乗り込んだ。
サンドイッチやブーシェやスコーン。サラダにキッシュ。牡蠣のカクテル。
アフタヌーンティをイメージした盛りだくさんのアントレを手際よく盛り付けてカウンターにずらりと並べ、 さて、ここからが仕切り直しとばかり、注文を訊こうとまっすぐに男を見据えたとたんに。
主役にケーキは届けましたしもう誕生会はおしまいですね。後は慰労会にしましょうか。おつかれさまでした。どうもありがとう。などと極上の笑顔と一緒に絶妙のタイミングで言われてしまって。
自分が用意した料理を、気がついたら、ちゃっかり自分も相伴するハメになっていたのだった。

客の前で無作法は曝さないよう、予め、出向く前に小腹は満たしてきたものの、本来が食べ盛りの年齢だ。 私ひとりではとても食べきれません。もったいないです。残される料理だって可哀相じゃないですかと、何処かで聞いたような台詞で男に かき口説かれて。
それならばちょっとだけ、と、遠慮しいしい牡蠣を口にしたのが運の尽き。
ひとつ食べたら止まらなくなった。
あとは、なし崩しだった。
はっと思ったときには、高耶はすでに半分以上の皿に手をつけてしまっていて。
恥かしくてたまらなかった。
ちくしょー、なんで止めないんだよ、おまえの料理だろうがっ!と自分の食べっぷりをただ無言で見守っていた男に理不尽な怒りが湧いてくる。
半ば自棄になって男に絡んだ。いつぞやの仕返しとばかりに挑発してみたのだが、男はやんわりと受け流すばかり。
しまいには高耶が匙を投げた格好になった。
「……ほんと、直江サンって変なヒト」
(しがないバイトのバーテンにこんな御馳走振舞って、タメ口きかれてにこにこしてるだなんて。こいつ、頭のネジどっか一本緩んでんじゃねーの?)
と、そんな憎まれ口は心の中だけにとどめておく。
呼び捨てでこそないけれど、その微妙なイントネーションに心証の変化を嗅ぎ取ったらしく、直江が微笑を深くする。
高耶のぼやきに大真面目で答えた。
「……まあ確かに変かもしれませんが。こういうオトナを一人キープしておくのも何かと便利だと思いますよ。まだトモダチとしては認めていただけませんか?」
そろそろ刻限が迫っている。どうしても言質を得たくておもねる響きになった直江の口説に、 高耶の眉がはねあがった。
「食いもん粗末にするヤツを、オレはダチとして認めねーよ」
「だからそれは……」
弁解しようとしたところを不遜に遮ぎられた。
「だから。テストしてやる」
「はい?」
「ナマモンは食っちまったし、スコーンやキッシュは冷凍できるし。あとはサンドイッチなんだけど。 これぐらいの量なら明日の朝メシに丁度よくねえ?」
「はあ…」
普段は朝食は摂らないのだが。彼が食べろと言うなら食べるしかないだろう。後でこっそり処分するという選択肢はこのさい論外だ。
「フィリングが何かスプレットにどんな隠し味が使われてるか、直江サン、舌が肥えてそうだから解るよな? 今度店に来た時に答えて」
「……それがテスト?」
「そう。あんたがちゃんと答えられたら、それが食べたって証拠になるから。その時はトモダチとして認めてちゃんと名前を呼んでやる。直江ってな」
にんまりと口角がつりあがる。そんな悪戯ッ子のような笑みを見せつけられては、もう陥落するしかなかった。
「……明後日から出張なんです。一週間。次に伺えるのは十日後ぐらいになりますが。それまで待っていてくださいね。お土産も買ってきますから」
「だーかーらー。答え聞くまでは友達でもないんだから。……従業員への御気遣いはご無用にお願いいたします。お客さま」
急に堅苦しい言葉遣いに戻った高耶は、そのまま、するりと席を立った。

直江の前にもう一杯、水割りのグラスを置くと、自分は まだ皿に残っていたスコーンをひとつひとつ丁寧にラップに包み、朝食用とおぼしきサンドイッチも見映えよく包み直してキッチンに下げに行く。
きびきびと立ち動くそのさまは、いつも店で見るとおりの彼。でも、もうその背中に頑なな拒絶はない。
ようやく自分に対する警戒を解いてくれた。が、それを今すぐこの場で認めてしまうのは彼自身の矜持が許さないのだろう。

すべての片づけを済ませ最後は折目正しく辞する高耶を、直江も礼儀正しく見送った。

次回の来店までの猶予。
それまでにきっと彼も自分の気持ちに折り合いをつけていてくれる―――
その日がたまらなく待ち遠しかった。



―――その十日が過ぎても、直江は店に姿を現さなかった。






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ああ、高耶さんてば…(無言)







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