少女の名はユキといった。 幼いうちに父を亡くし、先年、母も亡くなったという。 祖母も母も織物の名手で、母が生きていた頃はその手内職で一家三人暮らしていたのが、 祖母は寄る年波で次第に手足が利かなくなり、自分はまだまだ半人前で仕事は回してもらえない。 それで知人の口利きで宿屋の下働きに出たのだと。 一通りの家事は仕込まれていたけれど、やはり家でのそれと宿屋のそれでは勝手が違う。 毎日毎日怒鳴られる日々が続く中で、突然、雇い主から命じられた大役にユキはすっかり動転していた。 どこか謎めいた高耶の存在はもちろん彼女も知っていたが、まさか自分が親しく口をきく機会がこようとは思ってもいなかった。 しかも今度受けた話では口をきくどころでなく、この大切な客人を粗末な自分の家にお泊めしなければならないのだ。 無礼があってはならない。 粗相があってはならない。 その一念に凝り固まってかちかちの彼女から、高耶はぽつりぽつりと話を引き出す。 ゆっくり歩いてやがてたどり着いたのは通りから外れた路地の中ほど。似たような造りの並ぶ町屋の中の一軒だった。 事情を知らせに主が人を走らせたおかげで、彼女の祖母はまだ竈の火を落とさず待っていてくれた。 急な客人にも構えることなく自然体でお茶を勧めるその姿を見ているうちに、ようやく張り詰めていた心が解れたらしい。 少女は自分に注がれたカップの中身を一息に飲み干すと、高耶に会釈し、まずは寝台を整えるべく人が変わったようにてきぱきと働き出した。 最初こそぎくしゃくしたものの、それから続いたのは直江と過ごすのとはまた別の、穏やかな日々だった。 壁越しに台所から伝わる朝の気配。 三人で囲むつつましい朝食。 やがてユキが勤めに出かけ、留守を預かる媼と過ごす昼の時間。 他愛もない世間話をしたり、こじんまりした居間に飾られているたくさんの小間物たちの由来を聞いたり。 そのどれもが大切な家族の思い出に繋がっていて、愛しそうに目元を細める媼の表情が好ましかった。 時々、我に返った媼が高耶に問いかける。こんな昔話は退屈でしょう?と。 そのたびに、いいえと首を振って高耶は微笑む。 それで?お爺さんはその商人になんと言ってやり返したんです? さりげなく話の続きを促されて、媼はまた安心したように話し出す。途切れることなく。 彼女の紡ぐ昔語りのタペストリーは、ふんわりとやわらかく暖かな色味に溢れていて。 小さな子どもに還っていくような気がした。 時折、お礼代わりにと今度は高耶が琵琶をつま弾く。 王侯貴族も魅了したその豊かな音色に、媼はうっとりと聞き惚れる。 長生きはするものだねえまた寿命が延びるようだと、しみじみと呟きながら。 日暮れてからの晩餐は、一家に不釣合いなほどのご馳走が並んだ。 その日宿の客たちに供する料理の中でも特に選りすぐったとびきりの一皿を、亭主はユキに持たせたからだ。 他にも上等のワインや食べごろのチーズ。パテの詰まった壺や果物の砂糖煮。冬でなければ溶けてしまいそうな氷菓子など。 料理人の心づくしでもあるそれらは、到底高耶一人では食べきれない量があって、 固辞するのを説き伏せてなんとか媼たちにも相伴してもらった。 瞬く間に数日が過ぎた。 この間に嬉しい変化が起きた。歩くのにも不自由していた媼の膝の具合が、不思議なことに少しずつよくなっていったのだ。 高耶に届けられる滋養のある料理やワインのおかげとユキは感謝し、媼は媼で高耶の奏でる琵琶の恩寵だと言い張った。 まるで音色が患部にしみ渡るよう、聴かせてもらう度に痛みが薄れていったのだと。 やがて媼の膝は、少しの時間なら機織機の前に座れるまでになった。 久しぶりの感触に、初めは労わるようにゆっくりと。そしてすぐに長年の勘が戻る。 パタタタン シャー……――パタタタン シャー…… リズミカルな音が部屋に満ちる。 拍子をとるように身体を揺らす媼の口から、知らず古謡が零れだす。自信に満ちた節回しで。 一部始終を高耶は見ていた。 媼の瞳が次第に輝き、貌に生色が漲っていくのを。 ちんまり椅子に腰掛けて思い出語りをしていた媼も好ましかったが、今の彼女はもっと素敵だと、そう思った。 |