見渡す限り一面の桜花の花だった。 普通こういう比喩は花盛りの樹が何十本何百本と群れている光景にこそ使われるべきものだろうけど、 そのとき目の前に在ったのはたった一本の樹。 それでも歳降りたその存在に圧倒され、ただ立ち尽くすばかりだった。 呆けたように見上げる顔に、あとからあとから花びらは降りかかる。 無数の梢の先からひらひらと舞い落ちるその優美な様に知らず幻惑されていたのかもしれない。 ふと気づくと、花を背景に忽然と人影が湧き出ていた。 すらりと背の高い若い男の人のようだった。 「遅い」 自分を見下ろし、鋭くひと言、その人は発した。斬りつけるみたいに。ひどく不機嫌な声音で。 なぜそんなふうに責められねばならないのか、訳が解らず呆気に取られるばかりだった。 見据えられる厳しい視線に居心地の悪い思いをしながら黙っていると、やがてまたその人が口を開いた。今度の声には少し戸惑いが混じっていた。 「……しばらく見ないうちにずいぶん可愛らしくなった。そうか。とうとう人の世に生まれ出でたか……」 何かをかみ締めるようなしみじみとした口調。同時にずっと感じていた威圧の気配がふっと消える。 おずおずと顔をあげれば、その人は微かに微笑んでいるようだった。 ようだった、というのは、どんなに目を凝らしてもその人の貌がはっきりとは見えなかったから。 ずいぶん長く見つめていたはずなのに、どうしてもその顔立ちは定かでない。 それでも、美しい人だと思った。 艶やかな黒髪、唯一視えた口元。 その口角が華開くように優しいカーブを描いたのだけは憶えている。 「ならば、オレも…」 独白めいて最後にその人はそう言った。黒髪を揺らし彼方を振り仰いで。 瞬間、ザザザッと風鳴りがして、視界が白く染まった。風に散る花びらの乱舞だった。 そこでぷつりと記憶の糸は途切れている。 ずっと忘れていた記憶だった。 ふいに目覚めた払暁の闇の中で直江は思う。 あの桜はまさしく門前の桜の樹。 母に伴われ初めて大叔父を訪ねた十歳の春の日だった。 記憶の途切れたのも道理、その直後に自分は高熱を出して倒れこんでしまったらしい。 結局訪ねたのはあの一度きり、大叔父とはろくな挨拶もしないままだった。 当然覚えはめでたくないだろうと思い込んでいたから、大叔父の四十九日が済んだ後、母から相続の話を打ち明けられたときにはずいぶんと驚いた。 思えばあの頃から大叔父は自分を跡取りにと算段していた節があったのだという。 そこまで見込んでくれた気持ちはありがたいが、自分には自分の生活があり基盤がある。それらを捨てて田舎に引きこもる気はない。 きっぱり告げると、母は得たりとばかりに頷いた。母自身も、この話には乗り気でないようだった。 それでも、誰かが後始末をしなければならない。 先祖代々の蔵には手放して散逸させるには惜しい蒐集が幾つかあるはずだし、 独り身の大叔父のことを長年親しく看てくれたご近所にも挨拶をしておきたい。 ここはひとつ大叔父への供養だと思って、半月ほど向こうへ出向いてはくれないか。従弟の修平にも声を掛けておいたから――― そうして否応もなく母の掌で踊らされるようにして、此処に来た。 修平はこの巧みな網から旨いこと逃げ出したらしい。自分の代理に有能な学生を派遣するという直前の連絡に、まったくあいつらしいと苦笑が洩れた。 でもそのおかげで彼に逢えた。 あの時、桜の下に佇む彼からどうしても目を離せなかった。 初対面の相手に、なぜこんなも懐かしく胸騒ぐのだろうだろう? 如才なく振舞いながら一日抱えていたもやもやは、夢の中で氷解した。 どうしてもおぼろげだったあの人の貌が、今ははっきり高耶のそれと重なったから。 |