直江の腕の中で高耶は静かに眠っている。 微かな寝息、緩やかな鼓動、触れ合う肌から伝わる温み。 そのひとつひとつを、直江は、息潜めるようにして確かめる。 彼の口元には微笑の名残。 それでも蒼白くやつれた顔色は隠しようもない。 彼をここまで憔悴させてしまったことに、直江は苦く臍を噛む。 初めは戯れのつもりだった。 魅力的に育った彼があまりに無防備な姿をさらすから。 少しばかり性的なことを匂わせてからかって、ほんの少し味見をして。そんな軽い気持ちで仕掛けたのに。 彼の見せる初心な反応、情動、魂の放つ香気の馨しさに酔い痴れ、いつの間にか我を忘れた。 彼を組み敷き貪る自分は、きっと悪鬼の形相をしていただろう。 はっと気づいた時には、彼は息をしていなかった。 咄嗟の蘇生が功を奏して、幸い、息を吹き返したけれど、あやうく彼を喪いかけた事実は消えない。 彼がとても愛おしい。この輝きを失うことなど考えられない。 だからこそ、彼を手放すべきなのかもしれない。いつ何時箍が外れて彼を喰らい尽くしかねない己の傍から。 彼への執着が増せば増すだけ、相克もまた、深い。 答を出せぬまま、直江は、ただ黙って高耶の髪を撫で続ける。 「ざまあねぇな。直江」 暗がりから声が響いた。 「まったく、こんな坊やに骨抜きにされちまうなんてな」 突き放したようなその声は、すぐ傍から聞こえた。 ふいに現れた人影が、身をかがめるようにして直江に抱かれた高耶の貌を覗き込む。 値踏みするような無遠慮な視線。 が、最初は興味本位だったその眼差しにはすぐに怪訝の色が混じり、やがて感嘆のそれに取って代わった。 そして視線を高耶から直江へと移す。 「……なるほど。こりゃおまえの気持ちが解らんでもない。滅多にない上玉だ。思わず舌なめずりがでそうな…な」 あえて放った挑発的な言葉にも、直江は反応しなかった。 腕に抱いた高耶をただ慈しみを込めた仕草で撫でるだけ。彼以外のものは何も目に映らぬように。 (魂喰われちまったのは、むしろおまえのほうじゃないのか?) ふいに現れた人影―――千秋は、内心こっそりため息を吐いた。 しばらく前からこの朋輩の様子はおかしかった。 聞けば『汀』で出逢った人間の子どもにかまけているという。埒もないと受け流したが、やがて朋輩はしばらく『汀』に留まると言い出した。 人間の世界の刻で十年間。その子どもと約束したからと。なにより自分が成長した彼の姿を見たいのだと。 物好きにもほどがある。自分には理解しかねる心情だったが、この機会に恩を売っておくのも悪くない。 そんな計算で、朋輩の気侭を黙認していた十年間―――実を言えば、そんな経緯さえほとんど忘れかけていた。 つい最前、静かにまどろんでいるはずの朋輩の、突如荒ぶる霊力を感じるまでは。 何事が起きたかと思った。 駆けつけてみれば、『汀』には放心した朋輩と、人の子が一人。 何があったのかは、訊かずとも察せられた。 元々ヒトとは脆弱な生き物だ。自分たちと交わることは大概が死を意味する。 それを知らぬとは思えないから、 加減を間違えたのか、あるいはその手加減の利かぬほど相手にのめり込んだか。 件の相手を見て、得心した。 外見の見目良さだけではない、この者の持つ魂の強い煌き。内包する輝かしさは自分たちさえも魅了するほど。 人間にもごく稀に現れる『王の器』の持ち主だ。 けれど、彼は、もう――― 改めて血の気の失せた人の子と朋輩とを交互に見遣る。 元々が端整に整ったその貌には何の色も浮かんでいない。 作り物めいた仮面のような無表情。 それがかえって内に抱えた懊悩の深さを窺わせた。 「……まさかこいつを野に放そうとか思ってるんじゃあるまいな。 手放したら最後、半日と持たずに妖に襲われるぞ。なにしろおまえの匂いがべったりついてる。味は折り紙つきの上に、 庇護がなければ非力な人間。連中にとってはタナボタもんの御馳走だろうよ」 淡々とした指摘に、直江は弾かれたように顔を上げた。 案の定だ。 こいつは近視眼的に自分が彼に及ぼす危惧しか頭になかったらしい。 直江の霊力で上書きされた今、世界を徘徊する魔にとって、この坊やは最上級の魅惑的な獲物になったというのに。 千秋はこれ見よがしの大きなため息をついてみせた。 そして直江をぐっと見据える。 「どうせまたしょうもないことでぐだぐだ悩んでるんだろうが、やっちまったからには、腹を括れ。 坊やの人生狂わせた責任とって、せいぜい護ってやるんだな」 高耶を抱きしめた姿勢はそのまま、けれど、硝子玉のようだった直江の瞳に力強い光が戻る。 表情がどんどん引き締まっていく。 やがて、直江は、静かに高耶を床に横たえた。 薄掛けを直し、愛おしそうに髪を撫で、それからおもむろに顔を上げて千秋を見る。 「俺が戻るまでこの人を頼めるか?」 その物言いは、もういつもの直江だった。 千秋がにやりと笑ってあごをしゃくる。 (行ってこい) すっと直江の姿と気配が消えた。 愛しい者を護るため、彼との居場所を作るために、奔走する気でいるのだろう。 「……まずはお手並み拝見だな」 そう嘯いて、千秋は、一人、高耶の眠る座敷から縁側へと座を移す。 夜伽の供には酒肴の盆。昇りはじめた下弦の月。 ひんやりと頬を撫でる風には、微かな虫たちの声がまじっていた。 |