午前からざわめく森の気配は伝わってきた。 地元の人間は今では滅多に近づかぬが、それでも数年に一度はこうしたことがある。 また誰か事情を知らぬ余所者がうっかり入り込んだのだろうと、そのときは気にも留めなかった。 森には自らを律する意思がある。故意にしろ偶然にしろ無闇に立ち入る人間に好き勝手を許すほどあまくはない。 外界を刺激せぬよう殺生だけは禁じているが、 大抵の侵入者は木霊たちに惑わされさ迷い歩くうちに精気を吸い取られて、半死半生の有様で放り出されるのが常なのだ。 今度もそうなるだろうと高をくくっていたのに、 ソレは、自力で木霊の呪縛を解き結界まで破って、こちら側に飛び込んできた。まるで火の玉のような勢いだった。 もしもこちらに仇為す者ならば、放ってはおけない。 ぴりぴりしながら近づいてみれば、それは、ただの人の子に過ぎなかった。 泥と汗にまみれ細い手足に無数の引っかき傷を作って、精魂尽き果てた様子で呆然と『汀』の外れにうずくまる小さな子ども。 あまりに無力なその風情に毒気を抜かれ、そのまま打ち捨てておこうかと思った。 が、形は小さくとも結界を破るほど強く輝く光の持ち主だ。 その魂は滅多に味わえぬ極上の珍味だろう。手懐けるのも一興かと考え直して声を掛け―――、逆にしがみつかれて驚倒した。 相対する人間に、畏れられるのも崇められるのにも慣れている。もちろん、怯え慄かれるのにも。 けれど、いきなりこちらに縋りついて泣き喚くなど大胆な真似をした人間はこれまで一人もいなかったから、正直、扱いに戸惑った。 子どもの身体は熱かった。そして、かぐわしい匂いがした。 ああ、血の通う生身の身体なのだと、改めて思った。 そうして間近に触れ合わせていると、やがて体温だけでなく、子どもの心が身の裡に流れ込んできた。 山に迷って怖い思いをしただけではない。この子はずっと淋しかったのだ。淋しくて淋しくて、愛してほしいと訴えている。 ……攫ってしまおうかと思った。このまま傍に留め置き、慈しんで、永遠に幸福な稚児でいさせようかと。 先例は幾つもある。外界は少々騒がしくなるがそれでもやがて『神隠し』だと諦めるだろう。この子が不遇な身の上なら、なおさら。 そろそろと、絡めとろうと触手を伸ばした。 けれど、そうして触れた子どもの奥底にはまた別な想いが眠っていた。 お母さんに会いたい。お父さんに会いたい。美弥に会いたい。お願いだから早くボクを迎えに来て――― 家族を恋うる気持ちが心の裡に響き渡って幾重にも木霊している。それはまるで水晶に閉じ込められた光のよう、折り重なっては反射してより清浄な煌めきを創りだしている。 だからこの子の魂はこんなにも強く美しく輝くのだ。 ますます、この子どもが欲しくなった。 同時に、これはいけないと思った。 どれほど愛情を注いだとしてもこんな未練を残したまま連れ帰ってしまっては、この精神は長くは保たない。いずれ壊れてしまうだろう。 繊細な野の花を我が庭に迎えるときのように、まずは慎重に根付いた土ごと掘り上げてやらなければ――― しゃくりあげる背中を優しく宥めてやりながら、直江はゆっくりと考えを巡らせた。 |