イラズノモリ。 目にした文字に、高耶は眉を顰めて考え込む。 その名前は確かに知っている。知っているどころか直江と出逢うきっかけにもなった場所だ。 けれど、直江本人の口からその名を訊いたことはないような気がする。 それとも、自分が忘れてしまっただけだろうか? 箱にしまったままの宝物をもう一度いとおしむように、高耶は今ではすっかり遠くなってしまったあの頃の記憶をじっくりと辿り始めた。 高耶の迷った山のあたりは「イラズノモリ」と呼ばれていて、地元の人間は滅多に近づかぬ場所なのだということを、あの晩、高耶は添い寝してくれた祖母から聞かされた。 高耶のように半日で済めばまだ御の字、一度迷えば数日間は行方知れずになることも珍しくはないのだと、まるで禁忌を語るように恐ろしげに。 二度と近づいてはいけないと念押しされるのに、もちろん高耶は素直にこっくり頷いた。 もうあんな怖い思いは御免だったから。 それから祖母は直江についても話してくれた。 直江の家は、元々この地に続く素封家で、 戦後の政策で大半の田畑を失い一家は都会に地盤を移したものの、イラズノモリを含めていまだかなりの山林を所有しているし、 別荘として残した家屋敷には、時折、本家の人間が出入りしている。 その中でも三男の直江はこの地が気に入ったのかちょくちょく滞在しては、その気さくで穏やかな人柄から皆に慕われているのだという。 なるほどな、と、妙に納得した。 知らない大人は苦手な高耶だったけど、あの人は違ってた。子どもだからと見下さず、しどろもどろの話に焦れて割り込むのでもなく、対等に、辛抱強く聞いてくれた。とってもいい人だ。 そういえばまだ御礼も言ってなかった。今度会えたらきちんとありがとうって言わなきゃ……。 そんなことを思いながら、眠りに落ちていった気がする。 チャンスはすぐにやってきた。 何しろ次の日、山で失くしたとばかり思っていた高耶のリュックを、崖の傍の木に引っかかっていたと、直江本人が届けてくれたのだから。 そして再び恐縮しきりのおばあちゃんに、気が向いたらいつでも遊びにこさせて構わないからと、掛け合ってくれた。 「高耶さんは利発な子だから。私も話をしていて楽しいんです。また是非遊びにいらしてくださいね」 と、そう優しく微笑みかけられて。 まるで夢をみているようだった。 お行儀よくしなきゃ、と、気張っていたのは最初のうちだけ。 流行りのゲームこそなかったけれど、直江の家は、面白いもの、珍しいものでいっぱいだった。 それでも数度訪ねれば、目新しさも薄れてくる。そんな元来の闊達さを見越したように直江は高耶を外へと連れ出してくれた。 イラズノモリに続いているに違いない場所に入るのは躊躇いがあったけれど、庭から続く直江のうちの裏山は思う以上に素敵な処で、すぐに高耶は夢中になった。 きらきらと踊る木漏れ日。 涼しげに透けて重なる緑の葉っぱ。 一人で迷ったときとは全然違う、優しく迎えて包み込んでくれるような森の大気、風の匂い。 何より直江が傍にいるという絶対的な安堵感。 「ほら、見て、高耶さん」 そう言って掻き分けてくれた茂みの先にはぴかぴか光るキイチゴの実。 手渡してくれたのをおそるおそる口に含めば、上品な甘みと香りがいっぱいに広がった。 「おいしーい!」 そう一言発するなり後は自分でせっせと摘み取っては口に放り込む高耶のことを、にこにこと直江は見つめる。 「気に入ってもらえてよかった。イチゴの時季は終わりかけてて、これが最後の一群れなんです」 ほっとしたように言うから思わず直江の方を振り向いた。 「これで最後?なのにボクが食べちゃっていいの?」 「もちろん。……怖い思いをさせたこれはお詫び」 「???」 「お願いだから嫌いにならないでくださいね。あなたに見せたいものが他にもいっぱいあるんです」 嫌いになるわけがないのにどういうつもりでそんなことを言ったのか、そのときの高耶には理解できなかったけれど。 直江といればもっともっと楽しいことが起こるのだということだけはよく解った。 そして直江は期待を裏切らなかった。それから続いた一年もの日々を高耶はわくわくしっぱなしで過ごしたのだから。 大きくなって、キイチゴを口にする機会は何度かあった。 けれど、あのときのほど優しい味は他になかった。 大粒で綺麗な蜜柑色をしていて、酸っぱいよりも甘みが勝って、最後にほんのり後を引く香りが残って――― 懐かしい味が舌に蘇ってきて、高耶はこくりと唾を飲む。 あのキイチゴの茂みは今もあるのだろうか、と、 ぼんやりと想いを巡らせ、なにげなく視線を地図に戻して目を瞠った。 さっきまでたった一語句しか書かれていなかった紙片に、今は、高耶が思い描いた通りのあのキイチゴの茂みの場所が記されていた。 |