薄氷を踏むような刹那的な日々。 それでもいつか終わりは来る。長らくサナトリウムで療養していた妹の、快癒の知らせがその前触れだった。 そんな大事な報告を、夕餉の席、まるで雑事みたいに淡々と告げるから、実感するのに少し時間が掛かった。 とりあえず寿ぎの言葉を一言。 高耶が頷いて、それで話は仕舞いになる。 ―――彼はいったいどうするのだろう? 何事もなかったように伏目がちに食事を続ける高耶の優美な所作をぼんやり眺めているうちに、 ずっと押し殺してきた不安がむくむく頭を擡げてきた。 考えるまでもない。 高額な療養費が彼を縛り付けているのだ。その必要がなくなれば、嬉々として此処を出て行くに違いない。 「高耶さんっ」 思わず呼びかけて、そして気づく。縋るにしろ詰るにしろ、彼に訴えるべき縁を何ひとつ自分が持ちあわせていないことに。 「………?」 箸をとめ、話の続きを待ってこちらを見る彼の眼差しが怪訝なものに変わらないうちに、無理やりに言葉を繋いだ。 「詳しい日取りがわかったら知らせてください。その、退院に向けていろいろ入用なものもあるでしょうし、 なにより盛大にお祝いしないとね」 とってつけたような陳腐な台詞。 「……ありがと」 それでも礼を返す彼の瞳は優しくやわらいで、直江の胸中をさらにざわつかせた。 いよいよ退院が本決まりになった。 けれど、美弥は高耶の元には戻らないという。 多感な数年間を過ごした施設で、今度は自分が療養を支える側になりたいと言って。 また明るく闊達な気性を愛した院長夫妻が彼女を養女に望んでいること、彼女自身にも憎からず想う相手がいるらしくその地を離れがたく思っていることなどを、 約束通り、訥々と高耶は話した。 「でも。あなたはそれでいいんですか?たった一人の妹さんでしょう?」 彼の払った労苦を思えば、その仕打ちはあまりに理不尽な気がして、たまらずに口を挟む。 それなのに高耶は、いいんだと、首を振った。 「元気になって、生きがいまでみつけたんだから。それに………」 少しの間言いよどんでぽつりと呟く。 「もう美弥はオレから離れたほうがいい」 (?) 意味深な台詞に不審を覚える間もなく、高耶が居住まいを正す。 「直江」 厳かな声だった。来るべきものがついに来るのだと予感させるような。 「長い間、助けてくれてありがとう。直江のおかげで美弥の身体を治してやることができた。 おまけにこっちの親族よりよっぽど頼りになる人たちにも恵まれたみたいだ。 直江にはどれだけ感謝しても足りない。………本当に、ありがとうございました。御恩は一生忘れません」 そう言って、高耶は直江に対し深々と頭を垂れる。 彼なりの決別の言葉なのだろうと、放心した頭でそう思った。 「……それで、あなたはこの後どうなさるおつもりですか」 高耶と向き合ったまま長いこと呆けていて、ようやく言葉を絞りだした。一度口を開いたら、もう歯止めが利かなかった。 「以前の家に戻るのですか?美弥さんもいない家にたった独りで? そんな寂しい思いをするよりこのまま此処で暮すわけにはいきませんか?書生の真似事なんかしなくていい、ただ居てくださるだけでいいんです。 あなたがいないと、私は」 「直江」 静かな制止にも止まらない。積年の想いが迸る。 「あなたはさっき『御恩は一生忘れない』と言った。その言葉が嘘じゃないならどうか私を独りにしないで傍にいてください。 お願いです。あなたを―――」 「直江っ!」 鞭のような一喝に、一瞬、怯んだ。その気になれば言葉ひとつにここまで気迫を込められる人なのだと改めて思い知る。 それなのに。 「その先はもう言うな。辛くなるから。どのみち、もうお前の傍にはいられないんだ」 なぜ、こんなにも苦しそうに、こんな台詞を口にする? かっと全身が熱くなった。 「だから、何故です?それほど私の傍に居るのが苦痛でしたか?ただお金のためだけにあなたは嫌いな男に仕えていたの? 御役御免の金蔓にはもう機嫌をとる必要もないんだ。最後ぐらいあなたの本心を聞かせてください。 うわべだけじゃないあなたの本当の気持ちを」 またしばらくの沈黙が降りた。 いつもなら直江が折れる。でもこれだけは譲るわけにはいかない。睨み合いの末に、すっと高耶が視線を伏せた。 「出来るなら隠したままで消えたかったんだけど、仕方ないな…」 まるで自分を納得させるみたいにため息をひとつ。再び貌をあげた時には、もういつもの静かな表情で直江の目を真っ直ぐ見据えた。 「傍にいられないのは、オレがヒトではないモノだから。今のところは無事だったけれど、このまま一緒にいたらいずれお前の身体に障りが出る。 自分のせいで大事な人間が弱っていくのは、もうみたくないんだ………ずっと騙してきて、ごめんな」 そう言って、寂しそうに微笑んだ。 |